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京都大学霊長類研究所 > 年報のページ > 2012年度・目次 > 退職にあたって

京都大学霊長類研究所 年報

Vol.42 2011年度の活動

Ⅸ. 退職にあたって

 

社会生態研究部門生態保全分野・渡邊邦夫

 私は1972年に、霊長類研究所の大学院第一期生として犬山に来ました。そしてそのままずっと霊長類研究所にお世話になってしまいました。その間1982年に幸島野外観察施設の助手として採用され、宮崎県串間市で13年を過ごしました。幸島野外観察施設は私の赴任後1年で改組され、ニホンザル野外観察施設という国内5カ所の研究林・観察ステーションを持つ施設になりました。そのニホンザル野外観察施設が2008年に京都大学野生動物研究センター創設にともなって改廃され、私は社会生態研究部門生態保全分野に移り、今日に至ったわけです。私がやってきたのは、ニホンザルを含むアジアのサルの社会行動と生態、そして保全の研究ですが、長く附属施設に所属していたにもかかわらず、かなり自由に海外調査にも取り組むことができました。またニホンザル野外観察施設というのは、私より一世代前の野外研究者たちそれぞれの思いがつめこまれた、地域社会との密接なつながりのある施設だったので、どの研究林・観察ステーションにおいても通常ではできそうないもない付き合いをたくさんさせてもらいました。

 こうして振り返ってみると、いろいろなことが脳裏に浮かんできます。私が霊長類研究所に来た頃というのは、日本の霊長類学が有名になった、その基礎を築いた碩学たちがまだ活躍していた最後の頃にあたります。ときおり開催される研究会には、さまざまな分野の著名な研究者が出入りしていただけでなく、在野の研究者も多数参加しており、活発な議論がたたかわされたものです。そして大学紛争のなごりが残る中で、大学や研究の社会的な役割ということについても、いろいろな議論がありました。その頃は、霊長類研究所ができたばかりだったので、教員の半数程度はほんのちょっと年配の兄貴分と思えるほどに若く、独身者も多かったので、気兼ねなく酒をねだりながら、議論をふっかけにいけたものです。今考えると、正直、あんな時代もあったのだとしか言いようがありません。

 それから40年、霊長類研究所はずいぶんと変わりました。研究所だけでなく我々の生きている社会そのものが大きく変化しているのですが、私にはその善し悪しの判断がつきかねるところがあります。なにやら豊かにはなったようだが、窮屈でたまらない。例えて言うと、昔は水の中を気ままに泳いでいた。それがだんだん氷が張りつめてきて動くに動けなくなってきた。そんな息苦しさを感じるのです。研究者であるがための研究に追われて、夢のあるテーマを考えるゆとりがなくなったということでしょうか。老人の繰り言でしかないのでこの程度にしますが、日本の社会制度全体が戦後半世紀余を経ていつのまにか疲弊してきた。研究者の世界もその時代的背景から免れることはできそうもない。そんなことを感じています。

 私は、宮崎県串間市にある幸島野外観察所に始まり、ニホンザル野外観察施設の五つの研究林・観察ステーションの運営に携わってきました。いずれも長期継続観察をうたい文句に、サル社会のダイナミックな変動の解析を目的としていました。それがどれだけ成功していたのだろうか。よくそんなことを考えました。すでに霊長研からは分離された施設ですので論評は差し控えますが、ただ続けるだけでは意味がない。常に新しい何かを生み出していかないといけない。そこがいちばん難しい肝なのだと思います。若い研究者たちが、今後さらに発展させていってくれることを期待しています。

 ニホンザル野外観察施設では、私にとっても残念なことがいくつかありました。一つは、下北研究林が1973年に発足して以来、30年近く技官待遇職員として勤めていただいた足沢貞成さんに健康上の理由で辞めていただかざるを得なかったこと、結果として60歳を前にして夭折するという不幸を招いてしまったことです。野生ニホンザルの観察はどうしても人里離れた所での、一人だけでの孤独な作業になります。そんな環境で長く不安定な生活を続けるというのは、知らず知らずのうちに大きな負担になっていたのかもしれません。ご冥福を祈ると共に、私自身何もできなかった至らなさをお詫びします。また、上信越・木曽の研究林は人手不足からほとんど何もできないままに廃止せざるを得ませんでした。そしてニホンザル野外観察施設そのものも、野生動物研究センターの発足にともなって移管され、霊長研を離れることになりました。何故もっと頑張って霊長研内の長期継続観察基地を守らなかったのかという批判は、甘んじて受けたいと思います。私には、発足時それぞれの研究林に夢を託した研究者がすべて退官してしまい、そこをベースに研究する人も徐々に減少し、場合によっては誰もいなくなっていた。後を継いだ一人二人の研究者が、その運営だけにでもけっこう手を取られてしまっている。そういう状態の下では、枠組みを変えてでも、新しい要素を組み込んでシャッフルすべきだと考えたのです。じり貧を免れるためには、何らかの別のプロジェクトを立ち上げるなりして、次のステップへ引き上げるということが大事だったのでしょうが、そのための長い努力は結局実らなかったのです。とにもかくにも、ニホンザル野外観察施設の歴史からは、日本の霊長類学全体の変遷を強く意識させられています。

こうした施設運営にかかわる一方で、私はインドネシア、中国、タイなどで海外調査を続けてきました。数えてみますと、大学院の頃からほとんど毎年、延べ77回、これらの国での調査を行ってきたことになります。最初の海外調査の前に、何人かの先生から言われました。海外での調査研究は最初の時の経験が大事で、それがうまくいくとまた行きたくなる。辛い、苦しいと思うと尻込みするようになる、ということでした。確かにその通りで、私の場合は異文化(ただしアジアの限定された地域でしかありませんが)の中で暮らす楽しさ、面白さに、すっかりのめり込んでしまったようです。それぞれ調査研究の対象をどう料理するかということは当然いの一番に考えるべきことなのですが、調査地で出会った人たちがどういう人生を送っていくのだろうか、そんなことが知りたくて通いつめていた面もありました。これらの国に住む多くの人たちと家族同然の付き合いができたというのは、今思うだけでもたいへん嬉しいことです。

退官して落ち着いて考えてみると、いろんなことに手を出して、まとめる方は不十分なままに、ずいぶん散漫に過ごしてきたように思います。それを許していただいた多くの先生方や事務スタッフの方々、同僚諸氏、学生諸君には、厚く感謝します。若い頃は、定年退官などというのは考えたこともありませんでした。現代版の姥捨て山みたいなものかと思っていましたが、今では人生80年の時代です。そう長い期間が残されているわけではありませんが、この先、老い先をどう楽しもうか、考えあぐねております。

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