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京都大学霊長類研究所 年報
Vol.40 2009年度の活動
サル慰霊祭事始め
松林清明
私にとっては現役最後の慰霊祭になりますので,今年のスピーチを自ら買って出ました.この慰霊碑や慰霊祭の始まりに携わった者としてその経緯をお話しし,霊長研初期のスタッフらが抱いた精神の一端をお伝えしたいと思ったからです.
碑の設置を提案したのは,1972年当時サル施設(サル類保健飼育管理施設)長だった岩本光雄さんです.協議員会では,「身に覚えのある人たちがやればいい」という声もありましたが,私たちは「サル研究に携わる者は等しく,彼らに感謝し,人と動物の関係を考える機会を持つ必要があるのではないか」と主張して承認され,所を挙げた取り組みになりました.募金を始めたのですが,私たち若手助手の給料が2~3万円だった時代ですから,ひとり数千円出すのがやっと. 数ヶ月かかってようやく総額12万円になり,変異部門の庄武孝義先生が親戚すじの付知の石材業者に頼み込んでくれて,何とか作ってもらえました.運搬や据付の人手が足りないというので,庄武先生と私が現地まで行ってトラックに積むのを手伝い,今の位置に建立して,除幕式が行われたのは1973年の4月でした.
初めのうち,毎年の慰霊祭には犬山市善光寺の住職に来てもらっていたのですが,国立大学の行事が特定宗派色を帯びることに慎重な時代となり,10年後ぐらいからお坊さんのいない献花式スタイルへ変わりました.その頃,サル施設長となった私は,せっかくの慰霊祭に何か意味を持たせたいと考え,毎年1人の所員にサルの研究利用にまつわる短い話をしてもらう「リレー青空スピーチ」を思いついて始めました.最初にお願いしたスピーカーは,当時サル委員長だった浅野俊夫さん(現・愛知大)です. 献花が終わった後,参列者が大会議室で飲み物を飲みながら歓談する時代が続きましたが,そのうち酒を飲んで乱れる者がいたりして,この「ヒト供養」の方は近年は途絶えています.
生物研究に身を置く者が,研究手法のいかんに関わらず,みずからと研究対象との関係を時々は考えてみるというのは,実験研究を今後も継続していく上でも必要なことだと思います.それは"強者の傲慢"を戒め,実験手法を洗練し,社会の理解を得ていくのに有用だからです. 研究費にも論文にも全く関係のないこのサル慰霊祭のような行事が続く限り,霊長類研究所の行く末には希望があると考えます. 所員が年に一度,このサル塚の前でみずからの研究を振り返る日がこれからも継承されることを念じて止みません.
サル塚の横の小さな自然石は,私が昔,勝手に建てた1頭のサルの墓碑です.第一放飼場にいる高浜群の初代アルファオスで,放飼場の中で寿命を終えた最初のサルとなったエイタローというニホンザルのものです.このサルは40年近い私の在籍中に出会った中で,最も記憶に残る個体でした.70年春に研究所に来た野生群の中のリーダーとして威厳と責任感を保ち続け,職員がタモを持って放飼場に入ると,真っ先に対峙してきて果敢に群を守る老猿でした.犬山に来たときにすでに犬歯は欠け,下唇は裂けて古武士のような風格があり,実際に当時20歳台だった私より年長だったでしょう.後年,初めてサル施設スタッフが人工保育した子ザル・ダイゴローを第一放飼場に戻したとき,孤独なダイゴローを身近において何くれとなく保護していたのもエイタローでした.76年秋に老衰で弱り,スタッフは「入院室に収容しましょうか」と言ってきましたが,私はエイタローが終生守り続けた群の中で最期を迎えさせたく,そのままにしておきました.2~3歳の悪ガキどもが,横たわったエイタローの体に飛び乗ったりして遊ぶのを,No.2だったモモタローが怒って追い払っていました.それほど,仲間に敬愛されていたリーダーでした.私がいまだに心から尊敬する長老ニホンザルの思い出です.
(エイタロー在りし日の姿)1974年
(本稿は2009年10月15日に行われたサル慰霊祭での松林氏の「リレー青空スピーチ」を採録したものである)
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