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京都大学霊長類研究所 > 年報のページ > 2009年度 > 退職にあたって

京都大学霊長類研究所 年報 

Vol.40 2009年度の活動

退職にあたって

松林清明(人類進化モデル研究センター)

景山節(人類進化モデル研究センター)

中村伸(遺伝子情報分野)

 

 

 

松林清明(人類進化モデル研究センター)

設立のほぼ直後から40年近く勤めた霊長研を2010年3月に定年退職した.
研究用動物施設教員として主にサルを取り巻く状況の変化をつぶさに見てきた者として,若い人たちの参考になればと思い,霊長類研究の場における対象動物としてのサルについていくつか述べてみたい.

1970年に当時のサル類保健飼育管理施設(サル施設)助手として着任したが,期待されていたのは獣医師としてのサルの診療であった.
私はそれまでサルを扱った経験はなく,臨床業務も初めての新米だったが,お隣の日本モンキーセンターに通ったりして学び,300頭ほどのサルのケアを何とかこなしながら,時間をみつけてサルたちを観察する日々であった.
当時武蔵村山にあった予防衛生研究所獣疫室の本庄先生が主宰しておられた実験用霊長類研究会に参加させてもらえたことは,いい勉強になった.
日本でのサルを用いた様々な実験研究の黎明期に当たり,何をやっても新鮮な発見につながる溌剌とした時代だった.
しかし,研究現場でのサルたちの状況は,今から考えるとかなり原始的だった.

個別ケージは小さくて狭苦しく,グループケージは汚くて過密,検疫舎はプレハブ小屋だったし,実験用のモンキーチェアは研究者がアングル鋼で手作りした粗雑なものだった.

研究者によってサルの扱いに大きな差があり,一部の人はサルの怪我や死亡につながる事故をたびたび起こしていた.
実験に使われるマカクは大部分が有害駆除や輸入に頼っていて,特に外国産ザルは様々な感染症を持っていることが多く,高い死亡率に苦労した.

私たちの所属するサル施設は,文字通りサルの保健・飼育面の管理をやる所で,教員は診療が本務の助手2名だけ,数名の技官はサルの飼育と移動などに追われる日々であった.

このような状況を目の当たりにして,私は"いつかこうならないものか"という夢を思い描いた.
それは,1)研究に使うサルは所内で自家繁殖する 2)サルの飼育や実験利用に関してきちんとした倫理規範を作る 3)サル施設を研究施設に衣替えする という,本当に夢のような願望であった.

自分の所属した部署が,明確な実務目的を持った附属施設であることを,私は当初から強く意識していた.
好きな研究だけをやるというのは許されないと思った.
研究部門ではできない独自の役割として,霊長研特有の研究動物であるサル類を中心にした研究インフラの整備を目指そうと考えた.
その具体的な目標が,上記の3点であった.

幸いなことに,当時存在したサルをめぐる様々な課題を克服するためには少なくとも飼育設備の拡充が不可欠であると研究所幹部も考えていたことを間もなく知ることになった.
 
1972年には敷地西側の土地購入の概算要求が実現し,サル施設棟,検疫舎,第1~3放飼場,育成舎などができた.
これら施設の実施設計を施設部と打ち合わせることが私の担当となり,建築や土木にまるで無知だった獣医師が,放飼場や飼育舎の細かい構造について判断せざるを得なくなり,東山動物園に見学に行ったりして悪戦苦闘した.
施設ができるとそこに入れるサル群もいくつか導入し,ニホンザル・アカゲザルなどの繁殖母群ができた.
第一の夢,自家繁殖体制はこうして80年代半ばには実現した.

2点目の実現もほぼ同時期であったが,これには思わぬ外圧が影響した.
当時所内では,アメリカのNIHガイドを手本にして日本最初の「サル実験使用指針」を策定する作業を,私も委員だったサル委員会で開始していたが,研究所でのサル実験使用の状況について,ヨーロッパから来ていた研究員が内部告発を行い,国会質問にまで取り上げられる事態になったのである.

私たちは指針作りを加速させ,86年に施行した.
中心に据えた考え方は,「明確な反証がない限り,ヒトにとっての苦痛は動物にとっても同様の苦痛であるとみなせ」というものである.
文部省が全国の大学に動物実験に際しての指針を設けるよう通達を出したのは翌年のことであった.
この所内指針はその後見直し・強化が続き,今では全てのサル関係作業には講習と試験を経なければならないライセンス制を規定するに至っている.
動物の愛護および管理に関する法律により,現在は大学等での動物実験は最終的には学長を責任者とする許可制が義務付けられているが,霊長研は同法律によって規定されるはるか以前から同趣旨のルールでやってきていた.
サルという種の持つ特性から,他の実験動物よりも厳しい自己規制が必要であったという事情もあるが,70年代までの状況には問題があるとの共通認識を多くの所員が抱いていた背景があったのであろう.

最後の目標実現にはかなりの時間がかかった.
研究所敷地に新規プロジェクトを進める余裕がなくなったことと,飼育サルの環境改善には場所の確保が不可欠との理由から,90年前後には第2キャンパス構想(リサーチリソースステーション計画)が動き出していたが,概算要求はサル施設改組と組み合わせた計画とすることになり,まず組織転換に取り組んだ.
様々な曲折を経て,99年にサル施設から人類進化モデル研究センターへの衣替えが実現した.
それまで助教授1,助手2だった教官は,教授3,助教授2,助手1の陣容となり,技官増員もできて研究施設としての新しいスタートを切ることができた.
組織整備が叶ったことに息つく間もなく,初代のセンター長を拝命した私は残された施設整備であるリサーチリソースステーション(RRS)の要求に没頭する日々となり,応援団獲得や候補地探しのため,所長と一緒に関係学会・大学・政府機関を行脚して回った.
ナショナルバイオリソースプロジェクトのひとつであるニホンザルバイオリソースプロジェクト(NBRP)に参加したのもそういう時期である.
霊長研自体はすでにサルの自家繁殖体制を持っていたが,日本全体でも研究用サルは捕獲野生ザルに依存するのではなく,国内で飼育下繁殖・供給すべきとの時流が強くなり,サルの専門機関としてその一翼を担うことになったのである.

動物愛護団体の反対運動に直面しながらNBRPの母群確保などに汗をかいたのも作用したか,RRSも2005年には予算が付き,すぐにも用地を確定する必要にせまられた.
いくつかの候補地があり,それぞれについて検討を重ねたが,私は研究所から至近の距離であることに拘った.
何かあれば数分で駆けつけることが,動物管理には不可欠だからである.
 
曲折を経て土地は研究所の近隣で広く借りられるめどがついたが,地区住民の同意を得るのは容易なことでなく,担当者として苦難の日々であった.
ある晩,とうとう体当たりで隣接地区の責任者の自宅を訪ね,何とか説得して工事確認書にサインをもらったことで市が動いてくれて,当該地区の頭越しに県の開発許可が実現した.
これには強固に反対を唱えてきた当該地区も折れて,条件交渉へと移った.
予算を1年持ち越して着工にこぎつけたのは06年春であった.
自分の在職時代の最後となる大型事業が動き出したことにはやはり感銘があり,予定地に自生していた稀少植物のカンアオイを移植保存するために長靴を履いて一株ずつ掘り起こしていたときに聞いた林内のイカルのさえずりを今でも思い出す.

翌年に総長はじめ関係各位の列席のもとに明治村で開所式をしたが,困難を打開しようと努めていた日々はかなりのストレスをもたらしていたか,私は体調を崩しており,開所式の後,生まれて初めて入院生活を経験した.

RRSでとにかく目指したのは,飼育ザルにとって世界のモデルとなるような良い環境を作ることであった.
放飼場は元の山里の地形や植生をそのまま生かし,給餌区域と捕獲室,フェンス,池などを作るに留めた.
飼育施設排水は処理後に尾根へ散水し,施設内で循環させるシステムとした.
水質や匂い,騒音なども定期的に測定し,地域住民と合同でRRS環境評価の会合を毎年2回開催している.
新しく開発したフェンスは台風にも耐え,サルの脱出を招くこともなく,機能している.

このように,若い日に抱いた夢のような願いは,在職中に全て陽の目を見た.
思うのは,夢を持てたこと自体が幸せであったということである.
私の場合,夢を育てた原動力は当時の現状に抱く危機感であったかも知れないが,何よりもその危機感を共有できた仲間がいたことが大きい.
一人の力には限界があるが,組織の中に流れができると勢いが付く.
そのためには,理念を掲げて人々に説明を続けるしかない.
正当かつ妥当な目的だと理解されれば,支援してくれる人が現れるものである.

最後にひとつ付け加える.
サルの研究利用を考えるときに欠かせないのが動物福祉の視点であるが,この課題はガイドラインを作ればそれで完結するといった類のものではない.

ヒトと動物との関係の根本には"強者の権利"という巨大な断層が走っており,これは素朴な性質のものであるだけに簡単には覆い隠せない怪物のような存在である.
強者が自身および仲間のために他を犠牲にして生きているのは生物界の共通現象である.
しかし人間は,弱者を守る倫理感をはぐくむことで集団生活をより円滑に運営する性質を獲得してきた.

支配する側が力を他に及ぼすとき,配慮を欠いた露骨な態度を示すと,そのような問題に敏感なひとびとの反感を招く.
動物実験の場面でも全く同様である.

社会の中で,動物を用いた実験研究への理解を得ることだけではない.
研究対象の受け取る様々な影響を常に考慮しながら行動することは,その手続き法の洗練につながる.
丁寧な仕事は必ず良い結果をもたらす.
つまり,自分のためでもあると思えばよい.
不思議なもので,多くの人間は動物に対して冷酷な扱いを重ねると,やる側の心の内部がなぜか殺伐としてくる.
嫌な後味がして,仕事をした充実感が濁ってくる.
この感性は大事にしたほうが良いように思う.
どんな仕事であれ,やはり楽しんで爽快にやるに越したことはない.

私の考えでは,動物福祉とはゴールのない旅である.
方角を誤らないようにしながら,とにかく前進を続けるしかない.
あるべき動物福祉とは何か,常に考え続けることが必要である.
霊長類研究所で毎年行われているサル慰霊祭は,人と研究用動物の関係を1人ひとりが考える機会を持つのが目的である.
"反省"や"懺悔"をするためではない.
我々人間という強者は,研究の場で動物に対してどのようにふるまうのがいろいろな意味で今後のためになるのかを振り返ることである.
所の片隅の木立の中にひっそりと建つサル慰霊碑の建立に携わったひとりとして,言い残しておきたい.

就職した頃はインクリボンを挟んだタイプライターで原稿を打つ時代だった.
平方根を求めるのに必要な計算機は,机上の半分を占めるほどの大きさだった.
それが今では1人ひとりに高性能のパソコンがあり,いろいろな作業が極めて便利になった.
しかし全く変わらないものがある.
それは,動物研究にはその飼育や採材という原始的な営みが不可欠であるということである.
高等な種になるほど機械化・自動化は難しい.
サルの様子を観察し,餌の食べ残しや便のチェックをしないと,健康に飼うことはできない.
怪我や病気の個体は1頭ずつ治療しなければならず,それは休日でも省略できないのである.
盆も正月もなく,霊長研のサルたちのケアを365日担っている人類進化モデル研究センターのスタッフのことも忘れないで頂きたい.

面白い仕事内容だったか,同僚に恵まれたか,存分に腕をふるえたか・・・これら3つの問いにいずれもイエスと答えることのできる私の職業人生は多幸であったと言わざるを得ない.
全ては私たちを支え,励まし,ときには叱咤してくださった先達・同僚諸氏,関係諸組織のおかげである.

退職後は長年の憧れであった晴耕雨読の生活を送るつもりである.
これからは植物の勉強もしてみたいと思っている.
大学と霊長類研究所の益々の発展を祈念し,感謝とともに筆をおく.






景山節(人類進化モデル研究センター)

時代のながれと研究

霊長類研究所に27歳のときに職を得て36年間在籍することになった.
研究所の名の通り,講義や実習のオブリゲーションは殆どなく,研究をしたいだけできるという恵まれた環境だったと思う.
20年前とか30年前の実験ノートが今でも残っている.
それを見ると実験日が連続しているのが分かる.
実際に殆ど毎日研究をできたのである.
30代の頃は世の中の先端的なことをやろうとか,オリジナリティーの高いことをやろうとか強く意識したり,あせったりするが,歳を経るにつれそういう意識が薄くなっていったような気がする.
研究者であるから,完全にそういうことを意識しなくなったときは存在する価値はないとは分かっていた.
歳をとっても自分で原著論文を書くことで,極めて狭い専門領域であるが,何とか競っていくことはできた.

コンピューターが机の上を占拠してもうずいぶん年月がたった.
私のような年代の研究者ではよく話すことであるが,コンピューターは研究の生産性にどれほど影響を与えているのだろうか.
いま現在でも実際に利用しているのは,ワープロかデータ処理が多いのではないだろうか.
先日講演を頼まれたときにマッキントッシュのOSXのヴァージョンが少し古いのを使っていたら,最新版OSに入れ換えてあげますと言われた.
あわてて断った.
もし最新版にしたら苦労して集めた,自分の研究領域でしか動かないソフト群が動かなくなるからである.
研究者がマニアックに作ったりしたもので,本人が退役したりすると便利なソフトもバージョンアップされていないことが多い.
逆に考えてみると,いつでもOSが更新できる状況はワープロみたいにどのOSでも動くものしか入っていないのということになる.
机の上でモニターを見ているのはワープロでつくった文章を修正しているのがほとんどいっていいだろうか.
ある人に言わせるとコンピューターの出現によって文章は無限に修正がきくようになったが,本質的な内容のところは直らないという.
座っているだけ時間の浪費ということだろう.

論文の生産力はコンピューターがあるときとないときで全く差はない.
余分なデスクワークにさく時間がないぶん,むしろ昔のほうがいい仕事をしていたのかも知れない.
俗に生データと言っているが,新規のデータがでるのは手足を実験室で動かした時間に比例している.
1週間に6日ぐらい動いたとして年に1,2報の原著論文をかくのが精一杯である.
大学院の時と,助手になりたての時にはジャーナルの優劣というか序列というようなことは殆ど考えたことはなかった.
内容のいい仕事をすれば,世界のどこかで目につくだろうというような考えだった.
最初の頃は論文が印刷されること自体が楽しいことであった.
こういう考えは半分は合っていると思うが,半分はやはり間違っている.
いいジャーナルに出そうとするときは,必死で仕事をする.
とにかく書けばいいというのとは違ってくる.
少なくとも必死度が増すということだけでもプラスになった.
40歳になる少し前から米国の生化学のジャーナルに出すことを目ざした.
授業がないから毎日仕事をするわけであるが,働きずくめでも論文になるデータがそろうには1年はかかった.
物理的な労働時間が必須ということである.
また最新の分析方法を使うことが求められた.
論文を投稿すると,新しい分析ができるようになっているのに,古いやり方でやるのはどういうことかという単純な質問がレフェリーから返ってくる.
アイデアだけで勝負だなど精神論的なことは言っておられないこともあった.
日本の生化学のジャーナルにもかなり投稿した.
働きずくめで1年ということはなく,もっと短い時間で出すことはできた.
このこと自体が問題である.
日米の差うんぬんというより,レベルを無意識のうちに少し低いところに合わせている,あるいはデータをとるのに手加減をしていることだろう.

論文の中に入れる図は最近はカラーできれいなものが多い.
コンピューターの効用はこのへんだろうか.
若い頃には図を書くのに墨を入れた烏口とかレタリングセットを使っていた.
しばらくやっていると大分とうまくなるものである.
しかし簡単なお絵描きソフトが出てからとりあえずという感じでそちらを使ったらそのままになった.
もはや烏口は使うことは無いだろう.
烏口では1枚の図を書くのに時間はかかったが,修正は殆どできないので最初のデザインのセンスとか,絵心とかそういったものが図のできを決めることになる.
結構必死になるので,センスはなくてもまあまあのものはできるものだ.
上手な人の手描きの図は本当にきれいだった.
その人は今でも手描きで通している.
しかし,いかんせん時代がネットですべてを処理するようになっており,図を郵送することはなくなってきた.
だから時々図をスキャナーで取込んでpdfファイルにしてくれと頼まれたりする.

実験室でピペットと試験管代わりのチューブを使う室内研究者は,実際にその操作をおこなっている時間に研究成果は比例してくる.
朝,実験室にいって実験をはじめるのは楽しいことである.
特に,順調にデータが出始めたときはなおさらである.
私は大学院生のときは実験する時間帯は特に気にしたことがなかった.
午前中アルバイトをしていたりしたこともあって比較的夜遅いことが多かったように思う.
霊長研にきても当初はそうであった.
実験に費やす総時間が問題と思っていた.
30代の始めの頃であるが,酵素反応の細かなところをやっていたときに,子供ができたこともあって保育園等の時間に合わせるため朝早く仕事をするようになった.
それで朝8時前にきて仕事を始めることが多くなったら,午前中の仕事は午後の2倍くらいの能率であることが分かった.
というか比べてみると午後はほとんど生産性はないような気がしてきた.
午後の仕事はピペット操作を間違えたりしてろくなことはない.
もう少し早く気づいておればとも思ったが,そのとき以来自分の仕事時間は午前中を主体にしている.
霊長研に近年赴任された先生が同じことを実践されている.
私よりさらに朝が早いようである.
午前中の4時間の仕事は午後の6-8時間と同じと確信を持って言える.

研究所の定年前の5-6年ぐらいは役についたり,いろいろな雑用があったりして研究の進みは4分の1ぐらいの速度に低下した.
まあそれでも土曜日とか休日にデータを出せば少しずつ貯まっていくものである.
共同研究とか大学院生の指導とかはやってきたが,自分の興味は本質的に他人と共有できないような気がする.
論文も究極的な単著というか完全な単独の著作が何報かある.
これは自己を表現するという研究者の本質的なものに合っているかもしれない.
私は,はなばなしく研究室を構えてこなかったし,最後のころは完全に一人だったのであまり他人を気にすること無く論文を書いてきた.
そういうときは自分がやった仕事ということが強く意識できた.
こういう個人の仕事というスタイルは今の時代には合わないだろう.
京大のようなところでは多くの予算で,またチームを組んで,研究も戦略的に進めることが必要だろうし,そういうことが求められている.
しかし,仮にそういう場が与えられたとして,研究がまとまったときに,個人の自我と言ったものは捨てきれるだろうか.
研究者は自我の固まりみたいなものである.
共著の論文のオリジナリティーが世界的に認められたときに,"それは自分が",というのが誰しも最初に出てくるからである.
第1著者の若い研究者か,チームリーダーか,間に入った共同研究者が,それぞれ自分を主張する.
研究者の衝突の多くは最後は自分を譲れないから起こるのがほとんどである.

とりとめもなく書いてきたが,研究者は自我の固まり,良く言えば個性の固まりである.
色んな研究者との議論やぶつかいあいがしょっちゅうおこり苦い思い出や,そのときの血気が懐かしいものとなっている.
今では自分の研究速度はかつての10分の1か,もうほとんど停止しているかもしれない.
若い人と少しでもできればと思って模索しているが,年をとっても研究がまとまれば自我が出てきて若い人と衝突したりしていくだろう.







中村伸(遺伝子情報分野)

定年退職とバイオメディカル試験研究

霊長類研究所の今昔については他のお二人が触れられるであろうし,2008年度版年報でも三上先生が詳細に述べられているので割愛する.

ただ,新任紹介(1975年11月)と定年退職挨拶(2010年2月)のそれぞれの協議員会で,アフリカ研究センターの案件が共通議案になった事は印象深いので,その点について35年前を思い浮かべてみる.
1975年11月当時の協議員会メンバーは現在の半数以下(?)で,現事務室の向い側が会議室になっていた.
その日は幾つかの議題が有ったかと思うが,アフリカ研究センターについては白熱した議論と強引な賛否表明が新任者には強く印象に残った.

議論の内容はアフリカ研究センター設置に当たり,霊長類研究所がその学内概算要求する事の是非についてであった.
当該案件世話役の社会・生態系のK先生が推進の強い意向を述べられ,それに対して,他の概算要求への影響を懸念して生理・神経生理系のK先生が厳しく反論された.
他の協議員からの賛否討論は有ったと思うが詳細の記憶は飛んでいる.

かなりの議論の末,スケジュール的に今日決めないとタイムリミットとの事で,先のK先生から各協議員が賛否の意思表明をして決しようとの提案が出た.
その拙速な決定法に関して,サル施設(当時)のC先生が異論を出された.
私も当日新任でありながら,他の協議員と同様に賛否表明が求められたが,C先生同様決め方が拙速であると感じたので,賛成出来ない旨の意見を述べた.

結局,賛成多数でこの案件が可決され,1986年4月に京都大学アフリカ地域研究センターが設立され,それに伴う霊長研からの「貸出し人員」が派生した.
それが2010年2月の時点でも霊長研では清算されておらず(ただし,そう思っているのは霊長研で,大学全体ではこの問題は既に決着済み),教員定数を議論する際のゴーストとして出てくる.
35年前に基因する案件で,経緯を知る教員も僅かになっているので,この辺で時効処理した方が賢明であろう.

さて,教員の63歳(再来年以降は65歳)定年が早いか遅いかは,定年制そのものを疑問視する考え方も含め,教員自身がもっと議論すベき課題ではないだろうか.
一方,独立法人化に伴う任期制の導入により助教及び准教授層には10年程度で資格審査する「ねじれ定年」も適応され,研究・教育のテニヤ制度は実質崩壊しつつある.
奇妙なのは,教授職に就いてしまえばテニヤが担保され,業績や外部資金獲得に拘らず定年まで身分保障される.
相撲界だったらこうした状態の横綱は即引退であろう.
任期制に関しては,教員の流動性と研究の活性化が狙いになっている事は誰も承知しているが,流動性や活性化へのメリットを多くが疑問に感じている.

教員の流動性や社会性を高めるには,40歳・50歳代で早期退職を促す退職金および年金システムが確立されるべきであろう.
研究成果の実用化,研究経験に基づく行政対策あるいは大学と異なる視点の試験研究法人活動など,産・官・民に人材を提供する事で,教員の流動性は自ずから活発になるであろう.
同時に,転出教員を介した交流や連携を通じてアカデミアの社会性向上にも繋がる.
加えて,そうした元教員が,産・官・民の職場にドクター人材を求める事で,ドクター層の新たな活躍場所が拓け昨今のオーバードクター問題への対応にもなるであろう.
欧米の任期制は,教員人材が学・産・官・民4者間での大きなフローの中で活かされているが,国内ではこの様な視点と対策が熟成されないまま任期制のみがコピー&ペーストされている.

私は現在,特定非営利活動法人(NPO)プライメイト・アゴラを拠点に,これまでの研究実績と経験を活かしたサルモデルでのバイオメディカル試験研究の展開を図っている.
幸い,光永さん・上岩さんのスタッフも一緒に来てくれ,マンパワー的には退職前と変わらない.
また,研究費も厚生労働省科学研究費を交付されるので,予算的には比較的安定したNPO 活動初年度になる.

サルモデルでのバイオメディカル試験研究を推進するには,大型の外部資金がないと実質困難であるため,大学・研究機関では僅かな研究室でのみ取り組まれている.
一方,会社法人のサル試験受託機関(いわゆるCRO)は10社程存在するが,多くがGLP規格の受託試験を実施するのが精一杯で,独自の研究・開発活動の余裕はない.
また,厚生労働省・医薬基盤研究所の霊長類医科学研究センター(通称つくば霊長類センター)は,サルモデルでのバイオメディカル試験研究に特化した国内唯一の研究機関であるが,政府の事業仕分けの波の中「廃止」か「他への譲渡」を迫られている.

加えて,大学・研究機関でのサル実験利用に関してはALIVE・動物愛護団体からの情報公開請求など,実験研究の意義と倫理・福祉への監視が強い.
この様に学・産・官でのサルバイオメディカル試験研究がより困難状況になりつつあるが,民間・NPOでなら可能性が高い.
アカデミック要素の強い試験研究とNPO法人としての事業を収支バランスを取りながら展開するのは工夫と努力が必要であるが,秘策を胸にスタッフの協力を得て進めている.

NPO法人のsocial enterpriseとして,ニホンザルの保全と有効利用の統合システムの構築についても考えている.
年間3000-5000頭のマカクサルをバイオメディカル試験用に輸入する一方,それ以上の頭数のニホンザルが猿害対策で駆除(薬殺・銃殺)されている.
猿害駆除や野猿公苑・動物園でのオーバーポピュレーションの対応として,また,海外からの輸入サルに依存しないためにも,ニホンザルのバイオメディカル試験への有効活用が必要であろう.

霊長研では,大学・研究機関向けにはRRSプロジェクトで年間100-200頭程度のニホンザル供給計画が取り組まれているが,その先に来る産業界での需要に関しては全く考えられていない.
ニホンザルで推進された脳・神経系の基礎研究の成果を基に,関連医薬品や先端医療技術の開発を目指した応用・実用試験が進められるが,その際の第一選択肢はニホンザルになるのは必至である.
しかも,応用・実用化試験では,基礎研究の10倍以上の実験動物が必要で,年間数千頭のニホンザルの供給が求められる.
数年前,当時の人類進化モデルセンター関係者が「霊長研以外で実験用ニホンザルの繁殖・供給出来るところはない---」と言っていたが,はたしてそうか.
実験用マカクサルの必須SPF条件であるBVフリーのためのモニターリング手法さえ独自開発出来ない状態では,先の言は心もとない.

NPO法人プライメイト・アゴラを軸に,猿害や余剰になったニホンザルを有効利用した繁殖と貸与(供給)システムを考えている.
CROではこうしたニホンザルを使うと動物愛護団体からの攻撃を受ける事を懸念している.
攻撃は愛護団体からだけでなく,霊長類研究者の一部とその関係者からも予想される.
彼らは,1970年代日本モンキーセンターが実験用サルの繁殖供給を目指したが,それに反対した.
現在もそうした考えは残存し,それなりの影響力も有ろう.
しかし,各地の猿害や野猿公苑での過剰個体の問題は1970年当時想定し得なかった事で,そうした課題への対策として有効利用の道が模索されている.
上述のRRSプロジェクトもその流れの中にあり,1970年当時の反対関係者の一部もニホンザルRRS プロジェクトに関わっている.
したがって,猿害駆除や野猿公苑での過剰個体を上手く活用しながら,平行して野生ニホンザルの保全活動を展開するのは困難ではあるが,実現可能性は高い.

問題は,偏狭な愛護運動家であろう.
過激で違法な行動には法的処置で断固対抗し,一つ一つをリーガルマターとして確実かつ合法的な歩みにする事を想定している.
同時に,動物愛護・動物実験廃止グループとは対立するだけでなく,意見交換や交流も重要と考えている.
私達と彼らでは目標・目的が根本的に異なるが,face to face の対話の場を通じて,お互いをより深く把握出来るとともに顔・声・仕草などでの存在リアリティーが生まれる.
こうしておけば,対立課題が生じたとしても未知な相手との不毛なバトルを避け,妥協案探しの交渉テーブルにつき易く,相互の消耗も少なくて済む.
その視点で,既に彼らとのmeeting を持ったが,その内容については公開しない事を前提にしている.

先日スタッフの1人に「定年後もどうしてサルバイオメディカル試験研究やニホンザルの保全と有効利用などのNPO 活動をするのか?」と尋ねられた.
至極当然な疑問であろう.
東京理科大学の客員教授にして頂いているので,暫くは教育・研究のお手伝いをするのも一つの選択肢かも知れない.
しかし,これまで大学研究室で培って来た科学研究の経験と実績を,より実用性の高い社会現場で試してみたい.
学究性,収益性そして社会性の3要素の実現を目指すには非営利法人・NPOが格好の場であろうと,自分なりに結論した.
悠々自適・晴耕雨読,他大学での大学教員,あるいはNPO法人活動など,定年後の人生選択はそれぞれであろう.
いずれの道も苦楽は他人には分からないし,各人に適した歩みの様に見える.

定年退職に当たり,研究室の移動等で特段の配慮頂いた平井教授・今井准教授に紙面をお借りして深謝します.


 

 

 

 

 

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