京都大学霊長類研究所 年報
Vol.40 2009年度の活動
AS-HOPE(組織的な若手研究者等海外派遣プログラム)
人間の本性の進化的起源に関する先端研究
「若手研究者大航海プログラム」と別称される,独立行政法人日本学術振興会の事業で採択されたものである.本事業の正式名称は和名を「人間の本性の進化的起源に関する先端研究」,英名を「The
advanced studies on the evolutionary origins of human nature」とし,略称をAS-HOPEとした.事業実施期間は,平成22年(2010年)3月1日から平成25年(2013年)2月28日までの3年間である.したがって,平成21年度(2009年度)は,主として事業準備にあてて,1件のみの海外派遣をおこない,その他は平成22年度(2010年度)の事業として実施中である.
日本学術振興会は,将来における我が国の経済社会の発展の基盤となる有為な研究者の海外への派遣を集中的に推進するため,平成26年3月31日までの間に限り,平成21年度の一般会計補正予算により交付される補助金により,研究者海外派遣基金を設置することとした.本基金による「組織的な若手研究者等海外派遣プログラム」では,我が国の大学等学術研究機関,国公立試験研究機関等が,我が国の若手研究者等(学部学生,大学院生,ポスドク,助手,助教,講師及びこれらに相当する職の者)を対象に,海外の研究機関や研究対象地域において研究を行う機会を組織的に提供する事業に対して助成することにより,我が国の将来を担う国際的視野に富む有能な研究者を養成することを目指している.詳細はHP参照 http://www.jsps.go.jp/j-daikokai/.
事業の目的と特色は以下の通りである.霊長類学を基礎とする多様な野生動物の研究は,日本の歴史的な貢献が基盤にあるとともに,今後の発展が期待される学術分野である.現代社会の直面する多様な課題の解決には,そもそも「人間とは何か」「人間はどこから来たのか」という本質的な問いに対する答えの探究が必要不可欠である.人間の本性の進化的起源をさぐる研究が今まさに要請されている.
野生ニホンザルの研究は1948年に始まって60余年の歴史を誇り,チンパンジー研究でも日本は世界をリードしてきた.また野生ボノボ研究は日本が開始したものである.こうした野外での長期継続研究を基盤として,人間を含めた動物群である霊長類の研究は日本が世界をリードする特色ある研究だといえる.京都大学霊長類研究所は,1967年に創設されて以来,米国のヤーキス霊長類研究所と並んで国際的な研究拠点である.しかし,1997年にドイツにマックスプランク進化人類学研究所が創設され,2002年に英国ケンブリッジ大学に人間進化科学研究センターが開設され,霊長類学は日米独英の4か国の大競争時代に突入した.
霊長類研究所は,生息地国であるアフリカ・アジア諸国の研究機関と多数の交流協定を取り結ぶとともに,欧米先進諸国の研究機関とも連携協定を結んできた.とくに,ドイツのマックスプランク進化人類学研究所とは,「人間の本性の進化的起源の解明」という同じ目的をもった研究機関として深い連携を築いてきた.すなわち,日独の科学協力協定を基礎に,マックスプランク協会と日本学術振興会が覚書を交換し,日本学術振興会の独立行政法人化して最初の事業である「先端研究拠点」事業の採択第1号として,京大霊長類研究所とマックスプランク進化人類学研究所との連携ができた.先端研究拠点HOPE事業である.その後,ハーバード大学人類学部や英国ケンブリッジ大学人間進化科学研究センター,イタリア認知科学工学研究所,仏国エコル・ノルマル・シュペリエールも加わって,現在では,日独米英伊仏の先進6か国の連携体制ができている.
今回のAS-HOPE事業では,11ヶ月だけ先行した若手研究者インターナショナル・トレーニング・プログラム(ITP-HOPE事業)とのシナジー効果によって,「新しい霊長類学」の発展と,「霊長類以外の野生動物を対象にした研究」の推進をめざすものである.つまり,人間のこころ,からだ,暮らし,ゲノムの進化的起源を明確にし,人間を含めた自然の全体をとらえるような,日本から世界に向けて発信する日本の固有な科学的貢献を念頭に置いている.こうした,自然のまるごと全体を視野に入れた研究をめざして,京都大学は,探検大学といわれる野外研究の蓄積を基に,2008年に野外研究の推進の核となる野生動物研究センターを設立し,野生動物研究を広く展開する体制になった.また2009年には,霊長類研究所に国際共同先端研究センターという附属研究施設を新設し,英語で教育する英語コースも2011年に開設準備している.なお,2010年には,生物多様性条約のCOP10締約国会議が日本で開催される.また,第23回国際霊長類学会も20年ぶりに日本で開催される.さらに2011年には国際意識科学大会も第15回大会が初めて日本で開催される.こうした節目の時期に,人間を含めた霊長類の研究の深化と拡大は,日本のユニークな国際貢献を果たすという意味で重要である.とくに申請機関である京都大学としては,大学の特色としての野外研究を推進する研究戦略上,きわめて時宜を得ているといえるだろう.
事業運営体制は,ITP-HOPE事業と同様である.すなわち,霊長類研究所と野生動物研究センターに所属するすべての教授・准教授とした.事務体制も同様である.
ITP-HOPE事業とAS-HOPE事業は相互補完的であり,後者のほうがより広範な海外派遣を可能にしている.すなわち①若手研究者の対象を広げて学部学生も渡航が可能とした.京都大学であれば学部を問わない.②大学院生は霊長類研究所の野生動物研究センターの所属を原則とするが,グローバルCOE事業(阿形清和代表)と連携していることに鑑みて,理学研究科の生物科学専攻の大学院生であれば補欠の措置として例外的に参加を可能とした.③2か月以上が推奨されるがそれより短い期間の海外渡航も認める.④若手研究者が主対象であることに変わりはないが,事業を円滑に進めるための研究連絡や,学部学生の引率のために教授・准教授の渡航も認める.
海外派遣者の安全確保等危機管理体制の整備について付言する.ITP-HOPEもAS-HOPEも,両事業ともにその研究の性質上,野外調査が多いので,安全確保と危機管理については,慎重かつ万全の体制をとることとした.すなわち霊長類研究所に野外委員会をおき,日常的に熱帯病等のレクチャーを所内談話会等でおこなう.また野外委員会は,衛星を利用した遠隔電話システムを保有しており,必要なばあいはその機器を貸し出す.また,教育面としては,ライセンス制度を導入することで,サル類に関する注意事項や疾病についての基礎知識を与えている.さらに,日常の少人数授業のなかで,野外研究についての心構えを説いている.AS-HOPE事業における学部学生の参加については,京大特有の少人数ゼミナール形式での授業を通じて,事前の計画書づくりと,事後の報告書づくりを指導し,派遣者の安全確保につとめる.なお,実験室研究の派遣については,上記に準じた教育をおこなうとともに,メイルによる定期的連絡を指導教員(申請書に記載した推薦者)とおこなうこととした.さらには,対応教員が,必要に応じて野外調査地や海外パートナー機関を訪問することによって,現地での安全確保危機管理体制の維持と向上に努めることを義務付けた.
AS-HOPE事業はまさにその緒についたところなので,ITP-HOPE事業とのシナジー効果によって得られる将来展望を述べておきたい.京都大学霊長類研究所が取り組んでいる研究は,人間を含めた霊長類の総合的な研究である.人間のこころ,からだ,暮らし,ゲノム,健康といった多様な研究分野で,人間の本性の進化的起源に関する研究を推進している.教員約40名,大学院生約40名という構成からもわかるように,1対1のきめこまかな研究指導によって次世代の霊長類学を担う人材を育成している.連携する京都大学野生動物研究センターが取り組んでいる研究は,地球社会の調和ある共存のための野生動物研究である.人間と自然とを二分法で峻別しない,人間を自然の一部と捉える観点をたいせつにしている.人間以外の動物の研究を主として野外研究の手法でおこなうとともに,最新のゲノム科学や認知科学の手法も取り入れている.一方,霊長類研究所とは補完的な関係にある野生動物研究センターでは,オオカミ,ゾウといった陸上の大型動物や,イルカ,シャチ,といった海中の大型動物の研究が現在進んでいる.
こうした海外の大型動物を研究対象とした施設が日本に皆無である.したがって,野生動物研究センターは,京都大学の野外研究の伝統を継承する施設であると同時に,他に類例が無いので大学院の入学希望者がきわめて多い.初年度は4.4倍という高倍率だった.志の高い有為の若者が,野生動物研究をめざして京都大学に集っている.また,学部生を対象とした少人数ゼミナールを開講しているが,今回のプログラムで学部生の野外教育実習を組み込めれば,1年生から大学院生までを視野に入れた,長期的展望で,若手研究者を育成することができる.
霊長類はそもそもそのすべてがCITES(ワシントン条約)において,絶滅の危惧がある,あるいはその怖れがある種として位置づけられている.つまり稀少な種である.したがって,形態であれ,生理であれ,ゲノムであれ,何であれ,いかなる研究もその自然の生息地での社会生態研究を背景にもっている.現在でも,所属の大学院生には,幸島実習や屋久島フィールドワーク講座というかたちで,野外実習をそのカリキュラムで義務付けている.したがって,野外研究のできる研究者,野外研究への理解のある研究者を育成することをめざしている.自然の生息地での研究には,必ず自然保護あるいは野生生物保全といった視点が欠かせない.また,実験室での研究には,対象が絶滅危惧種なので,動物福祉の立場に立った環境エンリッチメントの努力が必須である.研究対象が何であれ,霊長類やその他の野生動物を研究対象にしているという基本的な自覚をもち,保全や福祉に配慮のできる次世代の研究者を育成することが必須である.
霊長類研究所も創設以来42年を経て,学問の細分化という問題に直面している.専門が深くなればなるほど,ある種の細分化が避けられない.その一方で,人間以外の霊長類や野生動物の研究には,その暮らしのまるごと全体にも配慮した広い視野と理解が不可欠である.そこで,生息地で,実習をすることによって,自らの体験を通じてこうした全体像の必要性を考えられる研究者を育成したい.それが,本事業で推進する若手研究者および学部学生の野外実習プログラムである.まずは野生ニホンザルを対象にした入門編を経た上で,他の研究対象が海外にしかいないので,そうした海外実習プログラムで野外研究者を育成する.
こうして育成された研究者だけが,長期の海外調査をすることが可能になる.つまり教育が研究を下支えし,研究の進展は教育という「未来への投資」に依存している.
将来構想としては卒業生の多様な進路のなかに,単なる学術研究だけでないキャリアを思い描いている.具体的には,現在進んでいる大学と動物園や水族館との連携が一例だろう.動物園等で野生動物とかかわる者,自然の生息地で保護の実践や行政に携わる者も,こうした教育の中から育てていきたい.また博士後期課程の有職者入学も認めているので,逆に現場の社会人として働いている獣医師や飼育員や自然保護活動の従事者の,再教育の基地になることも視野に入れている.どのような経路をたどっても,必ず京都大学で野外調査の基礎を学び,国内外の調査基地で,野生動物の暮らしそのものを実体験する.そうした実感を基礎としたうえで,霊長類や他の野生動物を対象とした,多様な基礎科学研究を総合的に推進することを将来構想としている.
以上述べてきたように,AS-HOPE事業は,平成22年(2010)年3月1日に開始されたばかりの事業である.平成21年度の派遣実績としては下記の1件のみだが,平成22年度分については粛々と実行している.
林 美里
国際乳児研究学会
アメリカ
2010年3月10日~3月16日
(文責:松沢哲郎)
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