京都大学霊長類研究所 > 年報のページ > Vol.46
> Ⅷ. 退職にあたって
Ⅷ. 退職にあたって
退職にあたって:霊長類研究所1976-2016
認知科学研究部門思考言語分野・松沢哲郎
1976年12月1日に助手として赴任し、助教授・教授を経て2016年3月31日に定年退職した。翌4月1日に、新設された京都大学高等研究院の特別教授となり、霊長類研究所の兼任教授として引き続き京都大学に在職している。あしかけ40年の長きにわたって、霊長類研究所の教職員・学生等の所員のみなさまにたいへんお世話になった。まずは、この紙面を借りて、ご厚情に対して深く御礼申し上げたい。本稿では、40年間を10年ずつ4期に分けて、それぞれの時期の活動を振り返りたい。初代の近藤四郎所長、第2代の大沢斉所長ら歴代の所長と親しく話のできた世代である。霊長類研究所の軌跡をたどる資料にしていただければ幸いである。
1976年からの10年間を振り返る。暮れに霊長類研究所の心理研究部門の助手に採用された。京大文学研究科の博士課程の1年生の終わり、26歳だった。それまでは人間の両眼視の知覚研究と、ネズミの両半球の左右差の生理心理学研究をしていた。上司の室伏靖子先生(当時、助教授)、浅野俊夫先生(助手)、小嶋祥三先生(助手)とそれまで面識はなかった。室伏先生にお会いした最初の質問が「松沢さんは朝型ですか、夜型ですか」だった。「山岳部なので朝型です」とお答えした。ほっとしたようすで微笑まれたのが印象的だった。浅野先生が極端な夜型で、夕方に出勤して徹夜して朝帰る。大学院生は1学年の定員が最大4名で、そもそも助手は大学院生の教育に関与しないことになっていた。9部門の講座制で、教授1、助教授1、助手2という構成である。教員の約半数を占める助手は、教育に関与しないし授業もない。全国共同利用研究所なので共同利用研究の対応に重きを置きつつ、自分の研究を進めることが責務だった。とはいえ、日中に会議等がある。極端な夜型はすこし不都合だ。夜型の助手を2人も抱えたくなかったのだろう。
当時、3先生とも、PDP8というDEC社のミニコンを使い、浅野先生と南雲純治技官が開発したコンピューター制御のシステムでニホンザルの学習行動実験をおこなっていた。B.F.スキナーの実験的行動分析(オペラント条件付け)に基づく研究である。何をしても良いといわれたので、オペンラントの基礎を学びつつ、ニホンザルを対象に「視野の異方性」の研究を志した。だれもしていない知覚・認知研究に焦点をあてた。ニホンザルがこの世界をどう見ているか、それを弁別学習課題で解析したい。キャリングケージでサルを運ぶのだが、実験ブースに移すときに逃げられた。さらに実験室から廊下に逃げだし、本棟の第4期工事(いまのエレベーターから西半分)の工事中の建物に逃げ込んだ。行方知れずのサルを総出で見つけていただいたのだが、汗顔のデビューだった。
翌1977年、霊長類研究所は創立10周年を迎えた。今西錦司先生の祝辞があった。その11月にチンパンジーのアイがやってきた。アイと初めて出会った日を鮮明におぼえている。地下の窓もない部屋の天井から裸電球がぽろりとひとつぶら下がっている。1歳になったばかりの小さな子どもだった。顔を見ると、目を見つめ返してくるのが印象的だった。その日からずっと、今に続く道である。チンパンジーと暮らす日々だ。半年後にアキラとマリがやってきた。1978年4月15日に、アイが初めてコンピューターの端末のキイを指で押した。
欧米でおこなわれていた類人猿の言語習得研究を日本でもおこないたいと考えたのは室伏先生だ。当時、浅野先生はカリフォルニア大学サンディエゴ校に2年間の留学中だった。小嶋先生は、入れ代わりにNIHに2年間の留学予定だった。つまり、わたししか残っていない。「松沢さん、やってくださいね」という室伏先生のことばで、チンパンジーの言語習得らしき研究をおこなった。唯一の大学院生の小島哲也さん(現、信州大学教授)と2人の勉強会をして、京大式図形文字を考案し、コンピューターのプログラムを機械語で書いた。当時は紙テープリーダーやカセットテープという媒体を外部記憶にして、たかだか4Kしかない本体の記憶容量を駆使したプログラムである。
結婚して2人の子どもが生まれた、朝8時に研究所に行く。チンパンジーの相手を終日して18時に帰宅する。夕食を家族と共にして風呂に入り、21時にまた研究所に戻ってしごとをして、24時に帰宅して眠る。基本的には1週7日間ずっと同じ単調な日々を繰り返した。チンパンジーの認知研究に専心する日々だった。後年「アイ・プロジェクト」と呼ばれる研究の成果は、1985年にNATUREに掲載された論文に結実した。ちょうどそのころ、日本山岳会からカンチェンジュンガ縦走隊へのお誘いがあった。まだ学部生のころ1973年に京大学士山岳会の隊の最年少隊員としてカンチェンジュンガ西峰(別名ヤルンカン、8505m)に参加しておりその登山経験が買われたからだ。ほぼ10年間、山との縁はいっさい断っていたし、チンパンジー研究はまさに佳境だったが、ヒマラヤ遠征の方を選んだ。1984年の縦走隊に参加して主峰(8600m)のルート工作を担当した。無酸素で8350mまで登って8000mの上と下を往復する荷揚げを繰り返した。初めて全日本の精鋭と登山してみて、いかに自分の力量が足りないかを認識した。登山家としては二流である。もっと身の丈にあった、自分なりの、自分しかできない登山を目指したいと思った。パイオニアワーク(初登頂の精神)である。まだだれも登っていない峰をめざす。登山と学問は同じだと明確に意識するようになった。
1986年からの10年間を振り返る。「比較認知科学」という新たな学問領域を確立した時期だといえるだろう。1985-1987年の2年間、文部科学省在外研究員制度を利用して、ペンシルバニア大学のデイビッド・プレマック教授のもとに留学した。わたしが助教授になったあとの助手が藤田和生さん(現、京大教授)だが、かれはブランウン大学に2年間留学した。つまり、浅野―小嶋―松沢―藤田と、歴代の助手は連綿と2年間の米国留学ができた時代である。米国留学中に、意図的に実行したのがアフリカの野生チンパンジー研究だ。まだだれも野外と実験室を往復する研究をしていない時代だった。大気圧が地上の半分以下で気温マイナス20度というヒマラヤ登山に比べると、アフリカの熱帯林での調査はたやすいと思った。アメリカ東海岸とアフリカ西海岸は近い。1986年2月、ニューヨークからリベリアのモンロビアに単身飛んで、乗り合いバスで北上して、国境を越えてギニアのボッソウ村で杉山幸丸先生に合流した。一度来ないかと誘われていた。その最初の訪問のときに、チンパンジーを調査しながら、まだ日本人はだれも登っていないニンバ山に目を付けた。現地助手のグアノとティノと対応者のジェレミの4人で、麓のニオン村に一泊して早暁出発し、1740mの頂上を一日で往復した。頂上からコートジボワール側に広がる原生林を見て、3国にまたがるニンバ山での野生チンパンジー調査を構想した。
ボッソウでとくに目を引いたのは、石器を使う野生チンパンジーの文化だ。大学院生だった佐倉統さん(現、東大教授)と野外実験を始めた。石と種とをチンパンジーが通りそうな場所に用意した。1993年に山越言・外岡利佳子・井上徳子さんの3人の大学院生がボッソウの調査に参加して、それ以来、通年の野外研究体制が整った。1986年から本年2016年1月まで、石器など道具使用の野外実験を中心課題にして、この30年間ほぼ毎年ボッソウ・ニンバに通っている。この4月からは、山越さんに加えて、大橋岳(中部大学)・森村成樹(京大野生動物研究センター)さんらがサイトを運営している。
1986年11月に、シカゴで、ジェーン・グドールさんを主賓にして、彼女の著書『ゴンベのチンパンジー』の出版を祝うシンポジウムが開催された。NATURE論文のおかげで招かれて講演した。グドールさんと初めてお会いした。わたしの講演を最前列で聞いていた彼女が最初に質問した。「ところでアイはふだんどうしているの?」。質問の意味がすぐに理解できた。動物福祉のことをたずねているのだ。幸いアフリカで野生チンパンジーを見ていた。「ふだんは仲間と一緒に屋外運動場で暮らしています。どうしようと自由なのですが、名前を呼ぶと自分の意思で勉強部屋にやってきます」。微笑んでうなずいてくれた。以来、1990年の彼女の京都賞受賞や、日本での国際霊長類学会開催(河合雅雄先生・江原昭善先生・岩本光雄先生・伊谷純一郎先生・竹中修先生・西田利貞先生らの主宰)など、幾度も道が交差するようになった。アメリカから帰国した1987年にチンパンジーの認知研究で理学博士号を取得した。霊長類研究所が出した最初の論文博士号である。同年に、11年間の助手を経て助教授に昇任した。1989年10月にチンパンジーのアイやアキラが鍵を開けて逃走する事件があった。当時大学院生だった板倉昭二さん(現、京大教授)や友永雅己さんが第一発見者だ。翌日アキラが瑞泉寺で捕まるまで、研究所の歴史上最大の騒ぎになった。1990年に最初の本格的な和文著書を出した。『チンパンジーから見た世界』(東京大学出版会)、39歳である。その本で、初めて「比較認知科学」という学問分野の名前を提示した。
1993年に当時の所長の久保田競先生の尽力で、大学院重点化にともない大部門改組されて、9部門から4部門10分野に移行した。1分野が教授1、助教授1、助手1の体制になった。改組して定員純増1・振替昇格1を得て、唯一新たにできたのが思考言語分野である。チンパンジー研究の中核と位置付けられた分野だ。その初代教授に昇格した。同時に助教授に昇格した藤田さん、新たに助手になった友永さんと3人でチンパンジーの認知研究を進めた。その基礎となるのが、「類人猿行動実験研究棟」(新棟)の建設である。1995年3月に竣工した。チンパンジーの認知研究は、①本棟2階の神経生理学の実験室1室からささやかに始まり、②第2放飼場の東端の実験室に移行して、③さらに新棟に移動したことになる。それから20余年が経過し多数の認知研究が生み出された。背景に3つの要因があるだろう。①1993年の思考言語分野の創設、②95年の新棟の建設、③同じ95年度(平成7年度)からいただいている科研費特別推進研究である。組織と建物と経費、その3つがこの時期にそろった。特別推進研究はその後も途切れずに6期26年間継続している。人々の支援に対し心から感謝したい。
野外研究に基礎をおく認知研究というスタイルを確立して、チンパンジー研究を日本とアフリカで並行して進めた。一方で登山も続けた。1989年にはムズターグアタ7456m、1990年にはシシャパンマ8027mへの登山隊を組織して、全員登頂をめざし、自分自身も隊長として頂上に立つことができた。8000m峰の頂上に立って、初めて360度開ける視界を実感した。高さへの希求から目を転じて、1993年のフンザ・カラコルム、94年の中国雲南省のモンゴル族、95年のブータンと、ヒマラヤの辺縁の少数民族の文化の調査をした。
1996年からの10年間を振り返る。チンパンジーの研究を発展させつつ、研究の国際化を推進し、さらには教育と社会貢献に踏み出した時期だと思う。国際化としては、1995年夏に、ボッソウで最初の外国人学生を引きうけた。タチアナ・ハムルさん(現、英国ケント大学准教授)だ。1996年夏に、霊長類研究所でドラ・ビロさん(現、英国オックスフォード大学准教授)を引き受けた。いずれも外国人学部生のインターンである。以後、この20年間、連綿と外国人学生の対応を続けている。また、研究の成果をまとめて、2000年に最初の英語の編著を出版した。『Primate
origins of human cognition and behavior』(シュプリンガー社)である。
アイ・プロジェクトの最も顕著な貢献は、言語に関連した論理数学的な概念の検討を基礎に、チンパンジーに固有な瞬間記憶を発見したことだろう。1999年にドラ・ビロさんと共著で、アラビア数字の記憶の課題の論文を書いたのが端緒だ。スワップ試行という課題の導入である。2000年に川合伸幸さん(現、名古屋大学准教授)と共著で、マスキング課題を発表した。たとえば1から9までの9つの数字がモニター画面に出て、1を触ると他の数字がすべて白い四角形に置き換わる。もと2があったところ、3があったところと順に選べれば正解だ。2007年に井上紗奈さん(現、甲南女子大学准教授)と共著で、こうした瞬間記憶ではチンパンジーの子ども3人のほうが人間のおとなよりも優れていることを報告した。これは、チンパンジーのほうが人間よりも認知的に優れている面を実証した最初の例だといえる。
2000年にアイが24歳のときに息子のアユムを産んだ。クロエとクレオ、パンとパル、3組の親子がそろった。参与観察という新たな手法で、研究者がチンパンジーの母子と対面して母親の協力を得ながら子どもの認知発達検査をした。この認知発達プロジェクトから多くの研究者が巣立っていった。田中正之(京都市動物園)、平田聡(京大野生動物研究センター教授)、上野有理(滋賀県立大学教授)、水野友有(中部学院大学准教授)、山本真也(神戸大学准教授)の皆さんらである。
教育への展開として、ポケゼミ(1回生向けの少人数セミナー)「チンパンジー学実習」の実施がある。1998年に1期生を迎えた。毎年8月に1週間、犬山の霊長類研究所で合宿しながら、5人の1回生がチンパンジー研究に参加する。1期生のなかから林美里(霊長類研究所助教)、松野響(法政大学准教授)、斎藤亜矢(京都造形芸大准教授)、永井美智子、平田加奈子らが育った。「チンパンジー学実習」は、友永・林・足立幾磨・服部裕子さんらに引き継がれて、今年で19期生を迎えたことになる。
社会貢献への転機は、1998年のSAGA(アフリカ・アジアに生きる大型類人猿を支援する集い)の結成だろう。わたしと山極壽一さんが発起人になった。2人ともまだ40代後半だ。大型類人猿の自然保護と動物福祉を推進し、チンパンジーの医学感染実験を止めるために始めた運動である。毎年11月にSAGAシンポジウムを開催し、動物園の飼育担当者も巻き込んで、関係者が一堂に会した。ジェーン・グドールさんが毎年参加してくれた。この運動が背景にあって、文部科学省の支援するGAIN(大型類人猿情報ネットワーク)事業が2002年に誕生して、チンパンジー・ゴリラ・オランウータンの戸籍が完備された。戸籍をもとに遺体の死後利用を促進し、生体への侵襲的研究を阻止する作戦だった。こうして
2006年秋にC型肝炎の感染実験が止まり、2011年に熊本サンクチュアリへの移行すなわち国立大学への移管ができ、日本のチンパンジー感染実験に終止符を打てた。
2006年からの10年間を振り返る。研究・教育・社会貢献に加えて運営に腐心した。2006年4月から2012年3月まで3期6年間、霊長類研究所の所長の職にあった。2006年に助手の任期制を導入した。2007年6月のリサーチリソースステーション(RRS)の発足は、杉山幸丸所長による1999年の人類進化モデル研究センターという組織の設立に始まり、小嶋祥三・茂原信生所長と3代の所長が引き継いだ事業だった。同じ年、本棟全226室を退去して耐震補強工事をした。2008年の野生動物研究センターの設立、2009年の国際共同先端研究センターの設立、2010年の外国人5人枠の独立入試の開始、2011年の野生動物研究センター熊本サンクチュアリの発足があった。日本学術会議会員としての3期9年間(2005-2014)は、心理学と生物学の両分野の会員として、学術の大型研究計画の立案に参画した。
研究面では、『Cognitive Development in chimpanzees』(2006年)『The
chimpanzees of Bossou and Nimba』(2011年)の2冊を上梓した。『想像するちから』(岩波書店、2011年)によってそれまでの研究をまとめた。研究の基盤整備が新棟建設以来20年ぶりに進展した。「WISH比較認知科学大型ケージ」の導入である。2010から2012年度の3年間の最先端研究基盤支援事業によって、犬山に2基、熊本に2基、大型ケージが完成した。それをつなぐ連結ケージや、日常場面での認知実験を可能にするスカイラボ等が設置された。これによって、1群のチンパンジーが、連絡通路で結ばれた複数の生息地を自由に行き来して、野生チンパンジーと同様に離合集散する暮らしができるようになった。特別経費(プロジェクト分)「(略称)人間の進化」を得て、ヒト・チンパンジー・ボノボのヒト科3種の比較研究、長期野外調査の支援、国際センターの支援、人類進化モデル研究センターの基盤的経費の支援ができた。
アイたちチンパンジーと向き合う時間は少なくなったが、毎年のアフリカ調査は続けた。野生チンパンジーの群れの歴史を見続けている。それと並行して、2010年にコンゴ民主共和国のワンバの野生ボノボを見に行き、2011年にルワンダの野生マウンテンゴリラを見に行った。1998年から数度にわたってダナムバレイの野生オランウータンを見ているので、これでようやく野生大型類人猿の全体に迫ることができた。2014年には雲南省の野生キンシコウの調査を開始し、2015年にカンボジアの霊長類、2015年末にカメルーンの採集狩猟民バカ・ピグミーを見に行った。霊長類はすべての種が絶滅の危機に瀕しているかその恐れがあるので、どのような研究もまずは野生の本来の姿を知る必要があるだろう。2012-2016年の4年間、国際霊長類学会長を務めており、世界を広く見て、霊長類の保全と福祉を国際的に進めようと考えた。広く歩き回って現地を自分の目で見ることが責務だと考えている。
2016年4月、霊長類研究所から高等研究院に所属が移った。研究は、特別推進研究によるチンパンジー研究を継続している。ただしチンパンジー・ボノボ・オランウータンとの比較に加えて、ポルトガルの野生ウマの研究へと展開している。教育は、従来の大学院教育に加えて、霊長類学・ワイルドライフサイエンス・リーディング大学院(PWS)を2013年10月に立ち上げた。野外研究に基礎をもった学問を展開し、アカデミアだけでなく保全や福祉の現場で活躍する人材を育てたい。社会貢献は、公益財団法人日本モンキーセンター(JMC)だ。2014年4月に公益財団に移行した。尾池和夫理事長、松沢所長、山極博物館長、伊谷原一動物園長という布陣である。JMCは1956年に今西錦司らによって成立された。JMCが基礎になって1967年に霊長類研究所が発足した。霊長類研究所が愛知県犬山市にあるのは、そこに先にJMCがあったからだ。JMCは今年10月17日に創立60周年を迎える。霊長類研究所は翌2017年に創立50周年を迎える。JMCが発行する英文雑誌「Primates」が巻を重ね、本年からは「モンキー」も復刊された。先人の努力を引き継いで、次の世代にバトンを渡したい。歳月を積み重ねてきた霊長類研究がさらに発展して、霊長類以外の生き物の研究へ、さらには人間の本性の進化的起源をさらに深く理解する学問に育っていってほしいと願っている。
私の読史余論
進化系統研究部門進化形態分野・毛利俊雄
『読史余論』は新井白石が正徳二年(1712)、将軍徳川家宣に講義したときの草稿である。この文では、筆者の言語生活の変遷を同書の「本朝天下の大勢、九変して武家の代となり、武家の代また五変して当代におよぶ、、、」にならって略述する。
発端は昭和二十五年(1950)、広島県尾道市長江町(旧町名は十四日町)に生まれたことにある。一変は、5歳で尾道幼稚園に入園したことである。二変は長江小学校への入学である。ここまでは、なにぶん幼稚、幼少の時期であり具体的な記憶はさだかではない。一変がたしかにあったと推測するのは、5歳まで私は狭い生家にこもりがちで、幼稚園ではじめて家庭の外の言語に接したはずだからだ。二変は小学校が義務教育であることから、容易におしはかれる。要するに小学校は、母集団が幼稚園よりひろいのである。いずれにせよ、ここまでは尾道語の世界。
中学校はとなり町の三原市に通った。これが三変。隣接する市でも、三原の言葉は尾道人には新鮮であった。四変は福山市の高校に通ったことによる。もともと、尾道と福山のことばがわずかにことなるうえに、進学校のせいか、ここでは岡山県西部のネイティヴの言語にもすこしさらされた。
五変は京都大学入学である。これは、京大生のことばの激変期とも一致するのでややくわしくのべる。先輩たちはやや硬いほうへくずれた関西弁をつかっていたようにおもう。西日本中心のおおむねは田舎者の混成集団がこういう言語で折り合いをつけるのはしかたのないことであったろう。ところが、昭和四十四年(1969)年の入学者は、東京大学の入試がおこなわれなかったこともあり、東日本、おもに関東の高校や予備校でゴロついていた者がかなりの比率をしめた。混成集団で、どの程度の比率を占める者の言語が大勢になるのかはおもしろい課題だ。マスコミの影響もあったのであろうが、京大生日本語は、ここで、相変わらずのくずれは払拭できてはいなかったものの、関西語にちかいものから標準語にちかいものに大きく変わったのである。その後の京大生語については、つまびらかには知らない。ところで、私以前の京大生語の話者はまだ一部に生存している。なにせ、ヒトの寿命はながいのだから。
六変以降は、小規模なので、省略する。
みずからの言語生活の変化をかえりみると、自分の言語を恥じ、ひたすら周りにあわせようとしてきたこと、見苦しいとおもわないでもないが、それはそれで努力賞ぐらいはあげてもいいかなともおもう。
アクセントには懐かしい尾道語の名残があることを付記する。