京都大学霊長類研究所 年報
Vol.39 2008年度の活動
XI 退職にあたって
三上章允(行動発現分野)
私が犬山に赴任したのは1974年6月,まだベトナム戦争も終結していない頃である.当時の霊長類研究所は,形態基礎,神経生理,心理,社会,変異,生活史,生理,生化学の8部門および幸島野外観察施設とサル類保健飼育管理施設の2施設という体制であった.本棟の建物は現在の正面玄関から西側は存在せず,本棟とサル施設との間は駐車場になっていた.もちろん実験棟も存在していない.本棟正面,現在放飼場のあるところは草原で,その一部は一時テニス・コートとなっていた.第2放飼場東側のグループケージも,宿泊棟西側の育成舎の場所も草原で,広々としていた.研究所の門へ至る坂道は舗装されておらず,雨が降るとひどくぬかるんだ.この道が舗装されたのは私が赴任した年の8月に名古屋で開催された第5回国際霊長類学会の直前であった.
当時の研究所のスタッフと学生の総数は現在より少なく,教官や事務官の年齢も若かった.そのためもあって,異なる分野間での交流も活発であった.多くの教官,事務官が塔野地宿舎に住んでいた.宿舎では毎年,花見と月見が行なわれ,年末には研究所や宿舎のあちこちでつぎつぎ忘年会があった.違う分野の会にもよく出席した.また,それぞれが乗っている車の車種や色を皆知っていたので,駐車場を見るだけで誰が現在出勤しているかが分かった.当時の車の窓の開閉は手動だった.夏,窓を開けたまま駐車していても,にわか雨が降り出すと気づいた人が窓を閉めてくれた.窓の開閉が電動となった現在ではこの恩恵にはあずかれない.第一,車の数が多すぎてとてもそのようなサービスは期待できない.
名鉄犬山駅の駅舎は平屋建瓦葺の小さな建物で,線路の西側にあった.そこで,研究所から犬山駅に行くには踏切を渡る必要があった.名鉄の東側にはユニチカの工場があり,郷瀬川までの広い面積を占めていた.そのため,名鉄の東側にはレストランも商店もほとんどなかった.一番近いレストランは研究所北側の柵を越えたモンキーセンター内のレストランであった.もっとも私自身は,当時の研究所の食堂「鳥ふじ」で昼も夜も食べていたので,モンキーセンターの食堂は数回しか利用していない.「鳥ふじ」の料理はおせじにも美味しいと言えるものではなかったが,赴任当時の給料で毎日外食はきつかった.霊長類研究所は共同利用研究所であったため,全国の大学,研究機関から研究者が訪れる.学会などで霊長類研究所の所属だと言うと,「ああ,あのまずい食堂のある」と言われたものである.
この当時を知るスタッフは研究所には数人しか残っていないが,研究所開設から10年間の経緯については「この十年の歩み」に詳しく書かれている.研究所の運営面で見ると助手(助教)以上が参加する協議員会はユニークなシステムである.この運営体制のスタートには大学運営の民主化が課題となった1960年代の機運が背景にあったものと思われる.それと同時に研究所の規模がそれほど大きくなかったことも幸いした.この運営体制のメリットは言うまでもなく,教員全員の智恵を汲み上げるとともに,教員全員が運営に寄与することである.この民主的な運営体制の中で助手も各種の委員会の委員長などを務め運営に重要な役割を担ってきた.この運営体制のデメリットは,委員会や会議の数が増えること,そして,研究に専念すべき若い研究者が多くの雑用をかかえる点にある.しかし,私はメリットの方が大きかったように思う.
霊長類研究所は本キャンパスから遠く離れ,愛知県犬山市にある.その経緯は,モンキーセンターにあった研究所のスタッフが霊長類研究所設立の運動で中心的役割を担ったこと,モンキーセンターを研究用のサルの供給先として構想していたことにある.後者については結局実現することはなかったが,霊長類研究所にとっては,モンキーセンターに隣接することでプラスの面があったように思う.霊長類学会がない時代にモンキーセンターの主導するプリマーテス研究会は日本の霊長類研究者が一同に会する場としての役割を果たしたし,モンキーセンターに編集室が設けられた英文科学誌Primatesは日本が主導する霊長類学研究の国際誌として重要な役割を果たしてきた.また,いくつかの研究がモンキーセンターとの交流の中で実現してきた.私自身,モンキーセンターを訪れることで多様な霊長類について随分勉強になった.また,実験に使用するサルの写真を用意するためモンキーセンターにたびたび越境した.
霊長類研究所は犬山にあるのだから,京都大学に所属する必要はないのではないかという議論が何度か行なわれた.こうした議論が行なわれた経緯は,京都大学に所属する限り京都大学の枠内での行動が求められ,文部省(文科省)と直接交渉できないという不満による.概算要求などで京大内の順番があり,研究所の重要事項が京大内では必ずしも重点事項にならないこと,予算や人員について本部の留保分が多いことなどである.確かに,文部省(文科省)直轄の研究所は予算も人員も豊富なように見える.反対意見としては,京都大学に所属することにより,研究所の社会的ステータスも高まるし,大学院生も集めやすいというものである.私自身はメリット,デメリットがあるのでどちらでも良いと考えていたが,京都大学の附置研究所として1昨年設立40年を迎えた現在,最早京都大学から離脱する理由はない.
京都のメイン・キャンパスから離れていることのマイナス面はいろいろある.図書館,診療所,生協の利用など,学内の様々なサービスが受けられない.学内の他学部との教育,研究面でも交流も時間がかかるので不便がある.教員や事務職にとっては,1時間程度の会議でも往復の移動時間に5-6時間を費やしてしまう.いっそ京都近郊に引っ越してはという意見もあったが,RRSの設置など規模が拡大した今となっては困難であろう.犬山のような「いなか」にいることによる利点もある.研究所の比較的近くに居住することが可能で,日常の通勤時間が短縮できる.大都会に比べて誘惑が少ないので研究に専念できる.関東と関西の中間点,名古屋まで30分というロケーションも悪くはない.私個人としては,比較的空気がきれいで,緑の多い犬山という環境は気に入っている.理由はともあれ,生まれ育った北海道よりも長く居住した犬山は私にとっての故郷になってしまった.
研究面で見る研究所の第一の特徴は霊長類を研究対象としながら様々な分野の研究者が集まっていることである.霊長類研究所は既存のどの学部にもないような多様な分野をかかえている.研究所内の研究者の連携で学際的研究に取り組む環境がある.旧神経生理部門,行動発現分野の主要な研究は,学習課題を遂行中のサルの脳内の神経細胞活動の解析であった.そうした研究を遂行するにあたって,心理部門が隣接していたことは大いに助けになった.私はここ10年余り,サルの色覚の研究に取り組んだが,野生のサルの捕獲,サンプル採取から,分子レベルの解析,行動実験,生理実験まで多くの研究者と連携して進めることができた.そのコアとなったのも霊長類研究所の様々な分野の研究者であった.
私は学部卒業後,脳研究の道に進んだが,北大大学院時代はネコを使った動物実験とヒトを被験者とした脳波の研究を行っていた.サルを対象とした研究は霊長類研究所に来てからである.もともと認知,思考,概念形成など高次機能に興味があって生理学研究室の大学院に進んだので,霊長類研究所の助手応募があったとき,すぐに応募することにした.脳の高次機能はサルでないと研究できないという思いからである.それと同時に,100年足らずの歴史しかない北海道で育った私には,歴史のある京都へのあこがれもあった.実は,応募書類を書いた時点では霊長類研究所が京都から離れていることに気づいていなかった.久保田先生の前頭葉の細胞活動記録の話を知っていたので,応募書類には,「聴覚刺激を使って空間記憶の実験を行い,視覚記憶の条件と比較することによって,前頭連合野の神経細胞活動が刺激のモダリティーによらず左右の概念に対応するかどうか確かめる」という実験計画を書いた.採用されて霊長類研究所に来てみると,当時心理部門の助手だった井深さんが側頭葉を破壊したサルで色弁別記憶課題の実験をしていた.私はすぐに心変わりをし,色弁別記憶課題遂行中の側頭葉の神経細胞活動を解析することにした.当時学習課題遂行中の側頭連合野の細胞活動の記録・解析は世界のどこでも行われていなかったので,世界で最初の仕事になるはずであった.結局,UCLAのFusterが私とほぼ同時にスタートし,先に論文を出すことになったが,私の仕事も側頭連合野の初期の仕事としてそれなりの評価を受けることができた.その後の研究の経緯は最終講義でも紹介したのでここでは割愛することにする.ただひとこと追加すると,霊長類研究所はサルを研究するという点では非常にめぐまれた環境にある.これからもそのメリットを保持してほしいし,生かしてほしいと思う.
退職前の2年間,自己点検委員会を担当した.文科省が求めるのは外形的,客観的評価である.この要請に応えるためには,数値を示した評価が必要となる.大学本部と文科省の求めに沿う形でやむをえず,引用数や投稿雑誌のインパクトファクターなどを挙げた作文を行なってきた.研究者間,研究機関の間で競争の激しい現代の情勢で,客観的な比較のしやすい数値は便利である.しかし,研究は多様であり,また多様でなければならない.数値評価だけですべてが決まる仕組みが定着すると,科学研究が歪み,研究の発展を阻害する.ロシアがソビエト連邦であった時代,紙の生産高を重量で評価していたことがある.その結果,各製紙工場は生産高を上げようと競って分厚い紙を生産するようになったという.これは,社会主義体制がもたらした弊害ではなく,評価の仕組みがもたらした弊害である.類似の問題は身近でも起きている.医学部の教授選考で業績を重視する風潮が一時定着した.その結果,診療のできない内科教授や手術のできない外科教授が誕生した.その反省から,各大学の医学部では選考基準が見直されている.霊長類を対象とした研究には時間のかかる研究や,長年継続してこそ意味のある研究が含まれている.霊長類研究所としては,他分野や隣接分野との競争を勝ち抜きながらも,そうした時間のかかる研究を排除しないような工夫が必要であろう.
林基治(器官調節分野)
36年間の研究生活をふりかえって
私は,霊長類研究所が創設されて6年目の1973年の8月に,当時の生理研究部門の助手として赴任しました.この年はベトナム戦争がようやく終結し,世間にはなんとなくむなしさが漂い,さらに石油危機でトイレットペーパーが不足し,買いだめ事件が起こるという殺伐とした時代でもありました.しかし研究所は建物が新しく,また増築されることも約束されていたので,明るくて新鮮な雰囲気に満ちていました.教員もはつらつとエネルギッシュで,毎月1回の協議会では助手から教授まで自由闊達に意見を述べ合い,時には議論が白熱し深夜になることもありました.また職員はほとんど塔野地の宿舎に住んでいたので,春は花見の宴,秋は月見の宴などが催され,教員,事務職員,技術職員そして大学院学生も皆一緒になって羽目をはずして大騒ぎをしたもので,今ではなつかしい思い出となっています.
赴任当初,そのころ新手法であったラジオイムノアッセイ法を用いて血中ホルモンを定量することが研究テーマでしたが,自分の関心のあるテーマでなかったこともあり,あまり気乗りのするものではありませんでした.しかし,その後サルの脳機能維持に重要な神経ペプチド類や神経栄養因子類を定量することが必要になり,ラジオイムノアッセイ法が大いに威力を発揮しました.一方細胞レベルの研究は,その頃ひじょうに感度のよい免疫組織化学法が実用化された時期で,前述の脳内機能分子類を含む細胞の発達と老化の研究を発展させることができました.このようにあとからふりかえってみれば,さまざまな研究経験はどれひとつとして無駄なものはなく,将来必ず役に立つ時が来るということ,そして実験には実際に実行可能になる条件が揃うちょうどよい時期というものがあることを知り,これらの体験はその後の研究にとってたいへん貴重なものなりました.私は研究とは本来きわめて孤独な作業と考えているので,あまり世間からの雑音が入らず研究にのみに没頭することが出来たのは本当に幸運であったと思っています.
霊長類研究所では,霊長類を研究対象とすることで,他の研究機関では行うことのできないユニークな研究を発展させることができるという長所があります.しかし一方,研究所の研究領域は,古生物学,生態学,行動学,心理学,神経科学,生理学,ゲノム科学,獣医学など多岐にわたり,それぞれの領域を専門とする研究者が比較的少人数なので,研究結果に対する厳しい批判や有意義な示唆を受ける機会が乏しいという欠点もあります.それを克服するためには,世界で行われている研究に常に目を向けて,積極的に国内外の学会や研究会に出席し,研究成果を発表することによって自分の研究を客観視することが必要です.その点で,今まで研究室に入学してきたほとんどの大学院生といっしょに北米神経科学会で研究成果を発表して来た事は有意義なことだったと思います.また霊長類研究所は全国共同利用研究所であり,さまざまな研究者と交流できたことも,たいへん貴重な経験でした.
さて私が行って来た物質レベルでの研究では,霊長類を用いるより安価で多数の材料が手に入るげっ歯類等を用いた方が有利な場合があります.従って研究を始める前に,まず霊長類を用いる意義について真摯に考える必要があります.しかし一旦研究計画がまとまったら,最後まであきらめずに研究を続行し,データがある程度集まった時点でとにかくなにかの形で論文にすることがぜひ必要なことだと思います.昨今,国の予算不足のなかでも当研究所の研究費は他の研究機関に比較して恵まれている方だと思います.所員はこれからも世界レベルの研究に果敢にチャレンジしてすばらしい成果を上げられることを祈っております.
終わりにあたり36年もの長きにわたり,私がなんとかここまで自由に研究出来たのは,実に多くの方々の助けがあったからとつくづく感じています.研究を進めるうえで価値ある批判や励ましをして下さった研究所の教員,共同利用の研究者,大学院生のみなさん,またさまざまな雑用をてきぱきと処理して下さった事務職員,技術職員の方々にこの場を借りてこころから御礼申し上げます.
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