京都大学霊長類研究所 年報
Vol.39 2008年度の活動
X 共同利用研究
3 平成20年度で終了した計画研究
哺乳類のマクロ形態学と神経生理学を統合した個体レベル比較生物学の確立
実施年度(平成18~20年度)
課題推進者:大石高生,脇田真清,鈴木樹理,毛利俊雄,遠藤秀紀(平成18,19年度)
本計画研究は,霊長類を含む哺乳類のマクロ先端的形態学の研究と,大脳をはじめとする中枢神経系の特性の解析を機軸に,個体レベルの形態学・生理学の比較と統合を目指す計画としてスタートした.
実施されたいずれの課題も,動物遺体,動物由来試料を有効に活用して進化,発達,機能のメカニズムに迫るものであった.
マクロ形態学的検討としては,類人猿の四肢運動機構の三次元的・定量的解析が特筆された.この方面では,骨格筋の定量的解析と,四肢骨格の可動性の研究から,チンパンジー・オランウータンを用いた四肢運動モデルの構築が試みられた.同時にその手法は,ニホンザル及び肉食獣における,走行登攀適応の肉眼形態学的理論化にも貢献している.また,腕神経叢の線維解析を進め,ニホンザルにおける肉眼観察のほか,腕神経叢の単純化が顕著な偶蹄類,特にマメジカ科,シカ科,ウシ科,キリン科におけるplexusの退化単純化傾向を確認し,脊椎列の伸長や退縮が脊髄神経に与える機能形態学的影響について,興味深い知見を得た.
他方,食性と咀嚼機構の解明が,本計画研究の大きなテーマとして取り上げられた.具体的にはコロブス類の顎構造形態が,既知の同系統の食性データに対してどのような適応傾向を示すかを,標本を用いた三次元的解析および多変量解析によって解き明かした.このテーマはニホンザルを中心としたマカク類,イノシシ科など雑食性有蹄類の適応的進化の議論にも貢献することとなった.
また試行段階であるが,霊長類研究所所蔵のリーフモンキー類,テナガザル類について,三次元DICOMデータの蓄積を開始し,研究所所蔵の標本による三次元画像解析に関するインフラ整備および標本情報の高度化が推進されることとなった.
神経科学的検討としては,遺伝子発現の条件間差異に焦点が当てられ,DNAマイクロアレイ法による遺伝子発現プロファイルの比較や,重要な複数のタンパク質の発現解析が行われた.
霊長類の大脳皮質は,多くの解剖学的にも機能的にも差のある領野に分かれ,さらにその中でも連合野が非常に大きく発達していることが知られている.前頭葉の,前頭前野,運動野とその中間的な構造的,機能的特徴を持つ運動前野の遺伝子発現プロファイルの解析は,遺伝子発現プロファイルもまさに運動前野が中間的であることを明らかにした他,領野特異的発現をする遺伝子群の特徴の解明につながった.連合野特異的遺伝子であるレチノール結合蛋白質(RBP4)の発現が新生児期の第V層で未熟であるという結果は,関連する他の分子が同様の挙動を示すこととあわせて,連合野およびその皮質下への投射の発達解析に結びついている.
上肢の特に指の精緻な運動は特に旧世界ザルで発達したものである.これは大脳皮質一次運動野から脊髄前角の運動ニューロンへの単シナプス性経路の有無と強く相関している.この経路の発達に神経成長関連タンパクであるGAP-43やneurograninが関与していることが,組織学的に示された.
霊長類の網膜の特徴として,中心窩,黄斑部の発達があげられる.黄斑部は周辺部に比べ,分解能においても色覚においても優れている.この黄斑部の形成に関わる分子を明らかにするため,黄斑部と周辺部の遺伝子発現プロファイルの比較が行われた.脂質代謝に関わる遺伝子群の発現を広範に制御する転写因子であるSREBP2が黄斑部視細胞層に多く発現することが明らかになったので,トランスジェニックマウス作成による機能解析が進められている.
このように,各課題からは興味深く重要な成果が得られており,学会等発表や論文公刊も順調に進んでいる.また,共同利用研究の取りまとめとして,2009年3月5日-7日に開催した共同利用研究会「個体レベル比較生物学をめざして」で行った.のべ180人が参加し,最新の研究成果に対し,活発な議論が行われた.個体レベルの形態学・生理学の比較と統合を目指すという壮大な目標は必ずしも十分には達成されなかった点が残念であるが,各研究者にその意識が芽生えたこと,遺体や生体由来試料を用いた各研究課題が着実に成果を上げていることは,十分に評価に値すると総括する.
本計画研究において実施された各課題の題目と研究者は以下の通りである.
<平成18年度>
大石元治,浅利昌男(麻布大・獣医)
「各種霊長目における四肢運動機構および咀嚼機構の機能形態学的解析」
肥後範行(産総研・脳神経情報)
「上肢運動の生後発達にともなう脳内神経成長関連タンパクの発現変化」
姉崎智子(群馬県立自然史博物館)
「完新世ニホンザルとイノシシの形態変異に関する研究」
佐藤明(理化学研究所・ゲノム科学総合研究センター)「霊長類中枢神経の部位別網羅的遺伝子発現プロファイル」
サチタナンタン・スリカンタ(岐阜大・連合獣医)
「ヨザルにおける脊椎湾曲の年齢変化の評価」
佐々木基樹(帯広畜産大・畜産)
「霊長類後肢の樹上適応に関する3次元立体画像解析」
樽創(神奈川県立生命の星・地球博物館)
「現生哺乳類の雌雄差形質と化石哺乳類への応用」
川田伸一郎(国立科学博物館・動物)
「哺乳類の歯式に関する研究」
押田龍夫(帯広畜産大・畜産)
「葉食性リス科齧歯類の生物地理に関する研究:葉食性霊長類との比較生物地理学的解析」
<平成19年度>
本川雅治(京都大・総合博),浅原正和(京都大・院・理)
「哺乳類にみられる歯の形態的多様性と個体変異」
天野雅男(帝京科学大)
「ニホンザルの下顎形態の地理的変異とその要因」
大石元治,浅利昌男(麻布大・獣医)
「各種霊長目における四肢運動機構および咀嚼機構の機能形態学的解析」
姉崎智子(群馬県立自然史博物館)
「完新世ニホンザルとニホンイノシシの骨形態学的研究」
佐々木基樹(帯広畜産大・畜産)
「霊長類四肢の樹上適応に関する3次元立体画像解析」
時田幸之輔(埼玉医科大・短期大学・理学療法学科)
「錐体筋・腹直筋支配神経の比較解剖学的検討」
藤田正勝(奈良文化財研究所)
「ニホンザル歯牙の幾何学的形態計測学を用いた形態学的研究」
古川貴久,井上達也((財)大阪バイオサイエンス研究所)「霊長類の網膜黄斑に特異的に発現する遺伝子群の同定」
小松勇介,山森哲雄(基礎生物学研究所)
「高次連合野成熟過程における連合野特異的遺伝子(Rbp4)の発現変化の解析」
<平成20年度>
本川雅治(京都大・総合博),浅原正和(京都大・院・理)
「哺乳類にみられる歯の形態的多様性と個体変異」
古川貴久,井上達也((財)大阪バイオサイエンス研究所)「霊長類の網膜黄斑に特異的に発現する遺伝子群の同定」
大石元治,浅利昌男(麻布大・獣医)
「各種霊長目における四肢運動機構の機能形態学的解析」
時田幸之輔(埼玉医科大・短期大学・理学療法学科)
「ニホンザル腰神経叢の観察」
(文責:大石高生)
霊長類の分子生理・分子病理学的特質に関する研究
実施年度:平成18~20年度
推進者:中村伸,林基治,清水慶子,浅岡一雄
これまでのサルモデルを利用した研究を通じて,ヒトの生理的特徴の進化的意義や疾病の予防・治療に関わる一定の成果が得られている.しかしながら,急速に発展する関連バイオサイエンス研究の流れの中で,ヒトモデルとしてのサル類の生理・病理学的特質について,更なる知見・情報の発信が益々求められている.
本計画研究では,主としてマカク類の生体防御系,薬物・エネルギー代謝系,内分泌・生殖系あるいは脳神経系について,健常成熟個体,胎仔・新生仔・老齢個体ならびに自然発症あるいは病態モデルを用い,遺伝子,タンパク質・機能因子,細胞機能,組織・器官特性の質的・量的変化を比較解析した.また,マカク類以外のサル類についても可能な範囲で同様な研究の展開を図った.
上記研究の成果を基に,共同利用研究会「霊長類モデルでのバイオメディカル研究-2009」(詳細は研究会のページ,135ページ参照)を開催し,サル類の生理・病理学的特質および適応性・疾病感受性に関する分子基盤情報の発信に努めた.加えて,下記研究実施者による論文・学会発表も積極的に進められた.
研究実施者:
<平成18年度>
後藤博三,中川孝子
「霊長類を用いた"唹血(おけつ)"病態の分子生理学・分子病理学的解明」
山手丈至
「サル類の加齢に伴う自然発症病変の病理学的解析」
竹中晃子
「霊長類のエネルギー節約遺伝子」
石谷昭子,下鴨典子
「霊長類の胎盤における非古典的MHCクラス1分子の発現について」
<平成19年度>
善岡克次,岩永飛鳥,佐藤時春
「MAPキナーゼ情報伝達経路の足場タンパク質JLPに関する研究」
後藤博三,中川孝子
「霊長類を用いた"唹血(おけつ)"病態の分子生理学・分子病理学的解明」
山手丈至
「サル類の加齢に伴う自然発症病変の病理学的解析」
竹中晃子
「霊長類のエネルギー節約遺伝子」
<平成20年度>
後藤博三
「霊長類を用いた"唹血(おけつ)"病態の分子生理学・分子病理学的解明」
山手丈至
「サル類の加齢に伴う自然発症病変の病理学的解析」
竹中晃子
「霊長類のエネルギー節約遺伝子」
(文責:中村伸)
霊長類コミュニケーションの進化と言語の起源
実施年度:平成18年度~20年度
課題推進者:松井智子,香田啓貴,正高信男(19,20年度),杉浦秀樹(18,19年度),室山泰之(18年度)
本計画研究は,ヒトを含む霊長類のコミュニケーションの研究を通して言語の起源を探るべく,個体発生的な観点からヒトの言語および社会認知発達を検証することと,系統発生的観点からニホンザルやテナガザルなどの音声コミュニケーションを言語的および社会的見地から分析することの二つを柱としてスタートした.
3年間で,ヒトを対象とした課題5件と,ニホンザルを対象とした課題3件,テナガザルを対象とした課題1件の,合計9件の課題が実施された.いずれの課題も観察的および実験的手法を駆使し,言語(音声)コミュニケーションの発達や学習における先天的な制約と環境的・経験的要素との相互作用の可能性について,新たなデータをもとに興味深い提言を行っている.
ヒト幼児を対象とした課題研究は,過去多くの研究により検証されてきた幼児の他者信念理解の発達段階を踏襲する一方で,その発達過程において,幼児の言語コミュニケーションの体験が重要な役割を果たすことを明らかにした点で非常に意義深い.これまで幼児の他者理解の指標とされてきた標準誤信念課題は,いくつかの理由から,3歳以下の子どもにはパスすることがほぼ不可能であると考えられてきた.そのひとつが,3歳以下の子どもは抑制能力が未発達であるため,自己の知識を抑制することができないということである.それに関して,課題研究により,他者の信念が言語によって明示化された場合や,幼児が自ら教示的スタンスをとり,自己の知識を,それを知らない他者に教えるというシナリオを用いた場合には3歳児にも無理なく他者の誤信念を理解することができるようになることが明らかになったことは非常に興味深い.
一方,幼児の言語コミュニケーション能力の発達には,母親の語りかけが大きな影響力を持つとされている.心の状態に関する語彙の使用に着目し,母親と子どもの自由な会話を観察した研究からは,母親は子どもの心的語彙の産出レベルに合わせて自身の語彙の複雑さを調節していることや,全体として子どもの語彙産出レベルをやや上回るインプットを与えている可能性が示唆された.
発達障害児がどのようにコミュニケーションのスキルを獲得していくのかについてはまだわからないことが多い.その中で,療育者とのやりとりから,子どもは他者とのコミュニケーションについて学習するという仮定に基づき,その特性を検証した課題研究の意義は大きい.この研究からは,コミュニケーション特性や言葉の理解には個人差が大きいことが明らかになり,それぞれの特性に応じたコミュニケーション支援の必要性が強く示唆された.さらに今後は療育の対象者を増やし,縦断的なデータを集め,分析することが予定されている.
ニホンザルを対象とした課題研究では,音声使用の地域差と学習過程についての調査が行われた.ニホンザルはグルーミングの前にgirneyと呼ばれる音声を発する.この音声には地域差があることが示唆されているが,その詳細はあまり報告がない.そこで,宮城県金華山島と鹿児島県屋久島において,ニホンザルのオトナメスとアカンボウを対象に,毛づくろい前の音声使用の調査を行った.その結果,毛づくろい前の音声使用の頻度は地域ごとに異なっていること,季節による違いもあることが明らかになった.また,アカンボウの音声使用に関する調査からは,ニホンザルは生後3ヵ月ごろまでに毛づくろい前に声を出すようになることも明らかになった.今後は,発達的な変化を調べることで,地域差がどのように生じるかの解明につながることが期待される.
テナガザルの音声コミュニケーションに関する課題研究からは,音声コミュニケーションの遺伝的および地理的な制約についての新たな知見が得られた.ヒト以外の霊長類には,音声の産出において,能動的に音声の変化をさせることは難しく,また同時に学習の影響を受けにくいと考えられており,音声の音響的な特徴は遺伝的に強く規定させたものだと考えられている.東南アジアを主な生息地とするテナガザル類は,他の霊長類に比べ,歌と呼ばれる音響的に複雑な音声を出し,その種特異的なパターンがはっきりと現れることで知られている.霊長類の発声の制約を考えた場合,テナガザルの種特異的な音声のパターンを指標にすれば,音声の種分化の過程や,また音響的なパターンの変異を生み出す遺伝的な制約や後天的な影響の程度を明らかにできるのではないかと考えられた.そこで,テナガザル類を対象とした音声の地域間変異の様相を検討し,インドネシアならびにマレーシアの野外調査を通して,特にアジルテナガザルの音声の変異性を音響学的に分析し,多様性を産み出すプロセスやメカニズムについて生物地理学的な視点から検討が行われた.
音響分析を通じた地域間変異比較の結果,現在までに,アジルテナガザルの音声は,分断された3つの生息地であるスマトラ島・マレー半島・ボルネオ島において大きな違いが認められることがわかり,従来の知見どおり,大きな遺伝的な違いが認められるグループ間での変異が確認された.さらに,違いを詳しく分析すると,マレー半島の音声が特に大きく異なりそうであることがわかった.この点に関して,系統的な成立関係を鑑みると,本来ボルネオ島の集団の音声が大きく異なることが予測されるのに反している.この結果は,おそらくマレー半島の集団がスマトラ島の集団と別れてから音声の変異が急速に進み,さらに集団内に急速に固定された可能性を示唆している.テナガザル類の種特異的な音声は,こうした急速な音声変異が固定されるプロセスを経て生み出されたものであることを予測しており,こうした研究は音声の種分化のメカニズムを解明する手助けとなると考えられる.
このように,各課題研究からはいずれも興味深い結果が得られており,今後の発展が強く期待される.これまでにも,ヒト幼児の研究の結果は,言語学や発達心理学のワークショップや,霊長類研究所の心理学セミナーや共同利用研究会などで,またニホンザルおよびテナガザルに関する研究成果は,日本霊長類学会や霊長類研究所の共同利用研究会(「ニホンザル研究セミナー」,「アジア霊長類の生物多様性と進化」)などの場で発表されており,多くのフィードバックを得ることができた.今後各課題研究がさらに発展し,言語コミュニケーションの進化について,意義ある成果を世に送り出すための第一歩として,本計画研究は十分な役割を果たすことができたと確信している.
本計画研究において実施された各課題の題目と研究者は以下の通りである.
研究実施者:
<平成18年度>
菅谷和沙(神戸学院大・院・人間文化)
「ニホンザルはどのようなときにコンタクトコールを発するのか」
府川未来(国際基督教大・院・教育)
「幼児の日本語終助詞と他者信念理解能力の発達」
初海真理子(国際基督教大・院・教育)
「母子の絵本読み場面における母親の心的状態語の使用について」
末永芙美(神戸大・院・文)
「他者を助ける状況下での幼児の誤信念理解」
<平成19年度>
菅谷和沙(神戸学院大・院・人間文化)
「野生ニホンザルにおける毛づくろい前の音声使用の状態に関する調査」
鈴木めぐみ(国際基督教大・院・教育)
「幼児の他者の認知的状態,確信度への言及の発達」
田中俊明(梅光大・子ども)
「テナガザル音声の地域間変異に関する音響分析」
<平成20年度>
菅谷和沙(神戸学院大・院・人間文化)
「野生ニホンザルの幼年期における毛づくろい前の音声使用の状態に関する調査」
田村綾菜(京都大・院・教育)
「発達障害児のコミュニケーションに療育が及ぼす効果の検討」
(文責:松井智子)
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