京都大学霊長類研究所 年報
Vol.39 2008年度の活動
V HOPEプロジェクト
3 HOPEプロジェクトの概要
人間の心も体も社会も,進化の産物である.「われわれはどこから来たのか」「人間の本性とは何か」,そうした根源的な問いに答えるためには,人間がどのように進化してきたのかを知る必要がある.生物としての人間は,脊椎動物の一種であり,哺乳類の一種であり,その中でも「霊長類」と呼ばれる「サルの仲間」の一種である.では人間は,他のサル類と何が同じでどこが違うのか.本プロジェクトは,人間と最も近縁な人間以外の霊長類に焦点をあてて,人間の進化の霊長類的起源(Primate
Origins of Human Evolution)を探ることを目的としている.HOPEは,その英文題目のアナグラム(頭文字を並べ替えたもの)であると同時に,野生保全への願いも込められている.人間を除くすべての霊長類は,いわゆるワシントン条約で「絶滅危惧種」に指定されている.先端的な科学研究を展開すると同時に,「進化の隣人」ともいえるサル類をシンボルとして,地球環境全体ないし生物多様性の保全に向けた努力が今こそ必要だろう.
日本は,先進諸国の中で唯一サルがすむ国である.そうした自然・文化の背景を活かし,霊長類の研究では,世界に先駆けてユニークな成果をあげ発信してきた.今西錦司(1902-1992)ら京都大学の研究者が野生ニホンザルの社会の研究を始めたのは1948年である.霊長類研究所(略称KUPRI)が幸島で継続しているサルの研究は60年目を迎えつつあり,9世代にわたる「サルの国の歴史」が紡ぎだされている.さらに1958年に開始したアフリカでの野生大型類人猿調査を継承し,国内外でチンパンジーの研究を発展させてきた.また,日本が創始した英文学術雑誌「プリマーテス」は,2003年からはドイツのシュプリンガー社から出版されるようになったが,現存する世界で最も古い霊長類学の学術誌である.一方,ドイツは,霊長類研究において,ウォルフガング・ケーラー(1887-1967)によるチンパンジーの知性に関する研究をはじめ長い伝統を有している.とくに,1997年にマックスプランク進化人類学研究所(略称MPIEVA)が創設され,類人猿を主たる対象にして人間の進化的理解をめざす「進化人類学」的研究が急速に興隆し,この分野における西洋の研究拠点になっている.アメリカについては,ハーバード大学を始め,霊長類学の多方面で多数の研究者が活躍していることは指摘するまでもない.
HOPEプロジェクトは,それぞれの国の中核的研究拠点とそれに協力する共同研究者が,ヒトを含めた霊長類を対象に,その心と体と社会と,さらにその基盤にあるゲノムについて研究するものである.研究拠点間の国際的な協力のもと,霊長類に関する多様な研究分野が相互交流によってさらに活性化し,「人間の進化の霊長類的起源」に関する新たな知見の蓄積と研究領域の創造をめざしている.「人間はどこから来たのか」「人間とは何か」という究極的な問いに対する答えを探す学際的な共同作業だともいえる.そうした基礎的な研究こそが,「人間はどこへ行くのか」という,現代社会が抱える諸問題に対する生物学的な指針を与えることになるだろう.
そのために,生息地での野生霊長類の野外研究を含めた共同研究の実施,若手研究者の交流と育成,国際ワークショップ・シンポジウム等の開催をおこなう.また,インターネット・サイトならびにデータベースの充実や,出版活動(とくに英文書籍による研究成果の出版シリーズの発足)を通じて,その研究成果の普及・啓発に努める.以上がHOPEプロジェクトのめざす事業である.
HOPEの財務であるが,およそ2500万円規模の事業が例年実施可能となっている.事業の主旨により,外国渡航旅費がほとんどすべてを占める.例年約70件の支援事業を実施している.HOPEプロジェクトは平成16年2月に発足,同年3月に京都で実施した国際集会により,日独米のコーチェアが一堂に会して,京都大学霊長類研究所(KUPRI)とマックスプランク進化人類学研究所(MPI
EVA)とハーバード大学人類学部(HUDA)とのあいだの共同事業の基礎固めをおこない,交流を本格的に開始した.
過去の実施事業を総括してみると,ドイツのマックスプランク進化人類学研究所のマイケル・トマセロ所長をはじめとする認知発達科学の研究グループと共同して,人間の認知機能の発達とその進化的基盤に関する研究をおこなった.ドイツ側がおもに社会的知性の側面を担当し,日本側はおもに道具的知性の側面を担当した.また,マックスプランク進化人類学研究所の比較ゲノム研究部門と共同研究をおこなった.さらに,言語や認知ともからむ形態・化石資料についての情報交換をおこなった.アメリカの拠点であるハーバード大学人類学部を加えた3者で,おもに大型類人猿の野外調査をおこなった.チンパンジーについて,アフリカの東部・中央部・西部の生息域に焦点を絞って研究を重ねた.また,日本側からとりわけ強く推進した研究交流として,ザイールでの野生ボノボの野外研究と,ボルネオの野生オランウータンの野外研究がある.これらの種と地域に関しては深く研究を推進し,その生態と社会についての新たな知見を加えた.
HOPEプロジェクトの参加希望者は年々増加し,平成20年度は,海外派遣,シンポジウムへの招聘を併せて約70件の渡航事業を支援することができた.派遣国は25カ国以上に及び,研究者交流と現地調査を精力的に進めることができた.多国間交流を包含した野外現地調査や現地での標本資料の検討が効果的に推進されてきた.欧米諸国のみならず,タイ,ベトナム,マレーシア,カンボジア,ラオスなど,これまで調査の遅れていた国々へも調査渡航が行われ,現地において海外先進国との綿密な交流が進められた.また,多くの渡航プランが若手研究者を海外の集会や調査地に派遣することを目的としてきたため,実際の人的交流やフィールドワークを通じての若手研究者養成に関して,最大の成果を上げることができた.一例を挙げると平成20年8月にエジンバラで開催された第22回国際霊長類学会(IPS)において,研究発表を行う若手研究者らの渡航を支援した.この会議は世界各地からの多数の霊長類研究者が集まる大規模な学会であり,参加した若手研究者たちにとって,世界中の関連研究者との交流を深める好機となった.若手は未来の研究活動に実際に貢献する人材であり,その国際的養成を本計画のもっとも重要な研究教育プランとして位置づけたことが,機能したと評価できる.
さらに,国際学術情報の収集,SAGAシンポジウム,国際ヒトゲノム会議,霊長類研究所国際セミナーや会合を通じ,多領域の研究者と学術研究および教育に関する情報の交換を達成することができた.平成20年度の若手研究者対象プログラムでは,世界第一線で活躍する霊長類研究者を国内外から招き,最新の研究成果を発表する機会とした.一例を挙げると,ドイツのマックスプランク進化人類学研究所の研究員クリケット・ザンツ氏は,コンゴ共和国北部の森林の野生チンパンジーが道具用いる行動を継続的に調査研究した成果について講演.また,アメリカのGreat
Ape Trust of Iowaで研究員をしているロバート・シューメーカー氏は,Great
Ape Trust of Iowaで飼育しているオラウータンの行動に関する長年の研究と,その研究結果に基づいて導き出した動物福祉についての見解を発表した.カナダのヨーク大学のアン・ルッソン教授は,ボルネオ・スマトラ島において捕獲されたオラウータンを森へ帰すためのリハビリテーションを行い,その活動の成果と課題について講演した.会期中は連日,多数の大学院生や若手研究者が参加し,活発な討論や意見交換が進められた.若手研究者にとってこれらの演題を議論できたことは,非常に意義深かったといえる.
以上のように,人的交流を発展させながら,テーマを学際的に研究するというシステムが有効であることをHOPE事業は証明することができた.そのため,HOPEのような研究組織間の人的交流を中心として研究遂行が,今後の学術施策の中で重要なものとされることは間違いない.大型機器や施設の導入のみならず,人と人が会い,次世代を育てつつ研究する仕組みづくりの典型的な事例といえるだろう.
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