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京都大学霊長類研究所 年報
Vol.37 2006年度の活動
XI 退職にあたって
相見滿
定年退職を迎え,いろいろなことが思い出されてきた.その思いの一部を書きつづることにする.
私が霊長類研究所に赴任したのは1975年10月で,系統研究部門が新たに発足したときである.30年以上も前のことで,系統研究部門が加わり,当初計画していた研究部門が全てそろった.
まず取り組んだのが,骨格資料の収集である.当時,骨格資料が研究所には,ほとんどなかった.所内からは,実験殺と病気などによる死体を集め,骨格資料にすることにした.当時,これらの死体は焼却処分されていた.有害鳥獣駆除による,ニホンザルの死体も集めた.動物輸入業者からも霊長類の死体を入手した.さらに,動物園にも協力してもらい,霊長類に限らず哺乳類の死体を集めた.集めた死体は,まず,ポリバケツにいれ,水をはり,1年ほどねかせ,腐らせた.それから,水洗いし,乾燥させ,骨格標本にした.
1977年から1980年の間,インドネシアのジャワ島で行われた人類化石産出地の地質調査に参加した.場所は中部ジャワ州のサンギラン(Sangiran)という村である.東京大学の渡辺直経さんが代表だった.私が分担したのは,哺乳類化石の調査だ.どんな哺乳類がどの地層から産出するのかを調べた.その結果,現在ではジャワ島にはカニクイザル(Macaca fascicularis)しか分布していないが,かつては,ブタオザル(M. nemestrina)も分布していたことが分かった.
1981年から1999年まで,インドネシアのスマトラ島でコノハザル類(Presbytis spp.)の分布調査を行った.川村俊蔵さんには終始お世話になった.調査を開始した当時は,スマトラを南北に縦貫する幹線道路トランス・スマトラ・ハイウエー(Trans-Sumatra Highway)の建設中だった.まだ橋のかかっていない川もあった.そこではフェリーと称する筏を使い,人や車を渡すのである.雨が降り,川が増水すると,何時間もフェリーが動かなかった.道路も舗装されているとは限らなかった.しかし,当時は,道路際にも林や森が残っていて,サルなどをよく見かけたものである.80年代中頃になると,道路も整備され,全ての川に橋がかけられた.交通量が飛躍的に増え,開発も進められた.その結果,道路周辺から林や森が消え,アブラヤシのプランテーションが取って代わった.特に,リアウ州ではすさまじかった.
この調査により,スマトラ本島には,北にトマスコノハザル(Presbytis thomasi)が,東の海岸部にモモジロコノハザル(P. femoralis)が,その他の部分にクロカンムリコノハザル(P. melalophos)が,分布域を重ねることなく生息していることが分かった.分布の境界は川である.分布の境界となっている川は必ずしも大きいとは限らない.スマトラで最も大きな川はムシ川で,河口部を少しさかのぼった町のパレンバンまで数万トンの貨物船が行き来している.しかし,この川は分布の境界とはなっていない.一方,トマスコノハザルとクロカンムリコノハザルの境界であるワンプー川は,幅30メートルほどのところでも,川の両岸で,種が異なる.川は上流に行けば川幅が狭くなるので,上流で分布の境界がどうなっているのか調べることにした.上流になるほど,標高が高くなる.植生も変わる.ある場所では,コノハザルが見られなくなってしまった.また,あるところでは,片方の種がいなくなってしまった.いずれにしても,隣り合ったコノハザルの分布域が重なることはなかった.
1981年2月にメンタワイ諸島で小型哺乳類の調査を行った.メンタワイ諸島はスマトラ本島から西へ100キロメートルほど離れたインド洋の赤道直下にある.最も浅い海峡でも水深が200メートルをこえる.最終氷期にも陸続きとはならなかった.多くの固有種をかかえていることで有名である.住んでいる人たちもユニークである.全身に入れ墨を施し,狩猟採集を行う.生活に必要なものは何でも自分で作る.自給自足の生活である.弓も矢も,自分の大きさに合わせて,自分で作る.カヌーも作り,家も自分で建てる.新石器時代の生活をしていると言われるほどである.このようなところにも,市場経済の嵐が押し寄せていた.フタバガキを求めて.フタバガキはベニヤ板の原木である.私が訪れた時は,採算のとれる木をほぼ切り尽くした頃だった.それでも,長い大きなチェーンソーを担いだ人がいた.高さが60メートルもあるような大きな木を,一人できり倒していた.倒された木は,ブルドーザーで海岸まで引きずりおろされる.海岸で木は,決められた長さに切りそろえられていた.それから台船に積まれ,シンガポールまで運ばれるという.自給自足の生活をしていた人たちが,伐採会社に雇われ,お金を手に入れ,酒とタバコをおぼえたという.伐採が終わり,収入が途絶えても,酒とタバコをのんでいた.この先,現地の人たちの生活がどうなるのか心配になったが,彼ら自身がどうするのか考え,行動するより仕方がない.
1999年11月には,マダガスカルでキツネザルの調査を行った.小山直樹さんにお世話になった.南端部に位置するベレンティ保護区に出かけた.夜行性といわれるイタチキツネザル(Lepilemur leucopus)が,昼間出てくるのにはびっくりした.ここには,人為的に導入されたチャイロキツネザル(Eulemur fulvus)がいる.チャイロキツネザルは,昼も夜も活動する周日行性の動物だ.夜も動き回るにも関わらず,チャイロキツネザルはタペタムをもたない.タペタムというのは,夜,イヌとかネコを懐中電灯で照らすと,目が光る.これは網膜の外側にあるタペタム(輝板)が光を反射するからだ.タペタムは夜行性への適応と考えられている.昼行性のキツネザルはタペタムを持っているのに,周日行性のチャイロキツネザルはタペタムを持たないのか,不思議である.
2002年11月にアメリカのシカゴにあるフィールド博物館で,Jack Foodenさんとニホンザルのモノグラフを共著で書こうという相談をした.Foodenさんは,マカカ属のサル類に関するモノグラフの大半を出版し終わり,残っているのは,ニホンザル(Macaca fuscata)とバーバリーマカク(M. sylvanus)の2種だけとなっていた.「体力も次第になくなり,どこまでやれるか分からないが,少なくともニホンザルは仕上げたい」と述べ,私に協力を求めた.私はすぐ同意した.それぞれが受け持つ章の分担を決めた.帰国してから,私が分担した章の原稿を書き上げた.共同して,ニホンザルの産地リスト作りに取りかかった.長谷部言人(1923)や岸田久吉(1953),竹下完(1964)など,既に公表されているものや,採集記録をできるだけ集めた.地名は日本語とアルファベットで併記することにした.アルファベットを付けるため,どう発音するのか調べるのに手間取った.「町」を「ちょう」と読むのか「まち」と読むのか.「村」は「むら」か「そん」か.宮崎県串間市にある「幸島」をどう読むのかは意外だった.「こうしま」だと思っていた.ところが間違っていたのである.骨格資料を調べるため,Foodenさんと一緒に,霊長類研究所の幸島観察所へでかけた.観察所の近くにある道路標識に「こうじま」と書いてあった.そこで,現地では「こうじま」なのか,「こうしま」なのかをたずねると,「こうじま」だという.近くに「大島」があるので,「小島」だったのが,いつの間にか,なまって,「こうじま」になり,「幸島」になったのだろうとのことだった.いきさつはどうであれ,現地では「こうじま」とよんでいた.念のため国土地理院が出している「2万5千分の1」の地形図で調べると,「こうしま」となっている.問い合わせると,「地名の読みは,その土地の呼び名に従う.幸島の読みは,串間市からの回答によった」という.串間市に問い合わせると,「こうじま」だという.串間市から国土地理院へ「こうじま」である旨を正式に報告するようにお願いした.現在,まだ直っていない.わたしたちは,モノグラフでは「Kojima(Koshima)」とした.2005年になり,モノグラフの出版をすることができた.
これまで,私は研究を一人でやってきたと思っていた.しかし,振り返ってみると,いかに多くの人に助けられてきたのかということを身にしみて感じるようになってきた.色々な場面で,いかに助けられてきたか.助けがなかったら,これまで続けてくることができなかったと思う.
2000年9月に,アメリカの首都ワシントンにある国立自然史博物館を訪れThoringtonさんと話をした.かつて,霊長類の研究をしていた人である.「南米の調査をしている内に筋萎縮症にかかり,手足を自由に動かすことができなくなった.しかし,不自由さも首までで止まり,頭はどうもない.本当に幸せだ」と言っていた.偉い人だと感心した.まさに「吾唯足知」の境地を行く人だと思った.
動物学の道を進もうと思ったのは,進化について研究したいと思ったからである.Dobzhansky(1973)がいうように,[Nothing in biology makes sense except in the light of evolution]である.ところが,進化を人間に当てはめると「社会ダーウィニズム」となり,「弱肉強食」となる.なぜこのようになるのか.間違っているのではないか.ダーウィンの時代に遺伝学がなかったことに,社会ダーウィニズムの出現があるのではないかとも思う.今後,もっともっと進化について追求していきたい.ちょうど,ダーウィン全集がネット上で読めるようになった.ダーウィンが残した,あらゆる資料を網羅するという.http://darwin-online.org.uk/で,誰でもアクセスできる.ありがたいものである.
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