小嶋祥三(認知学習分野)
退職して1ヶ月が過ぎた.「去るものは日々に疎し」という言葉があるが,おそらくお互いにそのような状態にあると思う.所員各位は私のことなど思い浮かべることはあまりないだろうし,私は私で新しい環境に慣れる必要もあり,研究所のことは意識の外にあることが多い.撮りまくった写真のせいだろうか,思い出すのは犬山の自然の方だ.昔からもう一人の自分をつくりだして,勝手にあちこちをブラブラさせてきたが,昨今,かれは犬山の里山を歩いている.これが嵩じると「二重身」とかいう立派な病気になるので,ホドホドにしている.
という具合で,書くことがないのである.しかし,リサーチ・リソース・ステーション(RRS)については上から,下から,横からと,いろいろと手を尽くしたので,無論,気になっている.打つ手はすべて打った,やれることはすべてやった,ということで悔いはない.ただ,これまでにない高みに持ち上げ,軌道に乗せたという意識はあるものの,最後までやらなかったのは残念だった,という気も少しはする.これで権力欲,名誉欲(もとにあるのは自己顕示欲だろうか)が強ければ,所長職にかじりついてスタートを見届ける努力をするのだろうが,生憎「縁の下」志向で(自己完結的な達成欲はある),その方面は淡白である.自分がいないと計画が進まない,などと考えるほど傲慢ではない(気に食わないと直ぐに「辞める!」という人がいるが,こういう心のあらわれか).多士済々で心配する必要などまるでないのである.
と書くと,ますます筆が進まない.法人化で各大学法人が内向的になるなかで,全国共同利用研究所は外に開かれた窓になりうる.その重要性を京大の執行部は認識していると思うが,さらに一歩進めて,京大の研究所・研究センター群は積極的に共同利用化をはかることがいいと思っていた.多くの研究領域の全国の研究者が京大を支えてくれる.某大学の総長は,たとえ国策的な重要性をもつ目的であっても,附属演習林全体から見れば米粒のような,全く利用されていないわずかな土地の移管にも応じなかった.法人化で全国レベルの問題を考えるところがなくなってしまうのを恐れている.
木下 實(系統発生分野)
光陰矢の如し,年月の過ぎていくのは早いものです.昭和42年6月1日に吉田構内の工学部土木学教室休館内に設置された,霊長類研究所仮事務所に勤め初めてから35年有余の時が過ぎ,この3月末日で定年退職いたしました.
35年間の勤務の中で数多くの研究者の方々,事務官,技官の方々と出会い,思い出は尽きませんが,その中でも研究所創設当時の,今西錦司先生,時実利彦先生,近藤四郎初代所長のことは忘れられない思い出です.当時会計掛所属の技官だった私の主な業務は,官用車の運転でした.近藤先生は昭和42年9月1日付けで初代所長に就任されましたが,全国最年少の48歳の研究所長誕生とマスコミでも話題になったものです.先生は,官用車は動く会議室にしますから木下君よろしくお願いしますと頭を下げられ,私ごとき若輩者にと胸が熱くなり,先生,安心して私を使ってくださいと申し上げました.
その後運営委員会が開催される度に諸先生の送迎をしましたが,特に印象に残っているのが,今西先生と時実先生です.今西先生はなぜか私を気に入ってくださり,一度他の人が迎えに行ったら,なぜ木下がこないのかと立腹され,その後は何があっても(私が系統研究部門(当時)の所属になってからも)今西先生の送迎は私がすることになっていました.先生のお身体が弱られてからは,伊谷先生が付き添っておられ,師弟関係の深き絆を垣間見る思いでした.最後に霊長研を訪問された時は,先生お一人でお越しになり,木下君一緒に食事しようとおっしゃり,岐阜羽島駅のレストランで食事を共にさせていただきました.その時は,先生にお会いするのもこれが最後になるのかもしれないと感無量の思いでした.
時実先生もよく官用車で送迎させていただきました.先生はくつろいでおられる時は,息子に語るかのように,若き学生時代の話,軍医だった頃のこと,戦後アメリカに留学していた時のことなどを話してくださいました.また,東京大学脳研究所の所長として創設の苦しさや楽しさを語られながら,所長は使命感が大事です,若き優れた人材を多く育てていくことがいかに大事であるかなど,熱く話しておられました.両先生とも動く会議室として,近藤先生と車中,霊長類学や研究所のあり方,後継者育成,人材の発掘などについて対話をしておられました.
国立大学の独立行政法人化により,霊長研は第2章の建設期を迎えることになります.
創設当時を振り返り,新生霊長研の建設に携わる所員の皆さまに,私の好きな言葉「建設は死闘破壊は一瞬」を贈ります.
三輪 宣勝(人類進化モデル研究センター)
霊長類研究所は1967年6月に設置され,私は翌年の68年4月に(財)日本モンキーセンターから移り35年間,技術職員としてサル類の飼育管理や研究支援に従事してきました.
この35年間を10年1日のごとく過ごした反省と共に振り返りますと,所属するサル類保健飼育管理施設は69年4月に設置され,所内及び共同利用研究に使用されるニホンザルや外国産輸入サルを導入・検疫を行い研究者へ提供してきました.特にアカゲザルは,高次脳生理学的研究の神経生理部門をはじめ心理・生理部門そして共同利用研究で多くの実験計画が組まれていました.インドからの輸入が年々厳しくなり研究者からの希望頭数や規格に十分対応できないこともありました.72年には中国からアカゲザルを輸入するようになり,一方インド政府は77年にアカゲザルの全面輸出禁止を行いました.
霊長研では懸案であった所内自家繁殖体制が80年にスタート,ニホンザルとアカゲザルを各3群構成,放飼場から間引きをしたサルを収容する育成舎も完成しました.かねてより繁殖母群用に備蓄していたアカゲザルをコロニーに編入し,出産数も年々増え85年頃には,生年月日の明らかな個体を研究用に提供できるになりました.現在はチンパンジー研究を始め研究内容の変化などでアカゲザルよりも,ニホンザルの需要が増え時代の流れを感じます.繁殖コロニー(放飼場)のサルたちは毎年秋に毎週1群づつ全個体を捕獲,定期健康診断,間引き,併せて生体計測などの研究も実施されています.97年からニホンザルとアカゲザルのBウイルスフリー群がつくられ,毎年抗体検査を行い陽転個体もなく繁殖維持されています.1986年に「サル類の飼育と使用に関する」ガイドライン(03年2版)が作成され動物福祉に基づいた実験計画や使用が推進されています.サル施設の運営経費は,常にサルの保有頭数が財源圧迫要因と問題になり頭数の見直しや経費の節約など行われてきました.ここ数年は運営経費外の財源が確保され,飼育の現場では環境のエンリッチメントが取り組まれています.95年から研究部門で飼育されているサルもサル施設(センター)で飼育管理の一元化を行い,非常勤職員が増員され飼育管理作業は当初に比べると質的にも高められおります.支援業務として集団遺伝学的研究のため変異部門の先生方に同行し野猿公園や動物園等で試料採取を行ったことも思い出されます.記憶をたどりながらサル施設(センター)の業務との関連を列記しましたが,多様な研究課題に対応するためサル種,性,年齢などきめ細やかな対応を始め研究支援業務は,日々運用しながら少しずつ改善が図られています.
霊長研の中期目標の柱であるRRS,そのめざす目標は今まで蓄積された知識や技術を基に設備や体制を作るか,まったく新たな発想で戦略やシステムを構築していくのか具体的な中身がすべて見えているわけではありません.実際に現場で仕事をしている人々は,基本的な考え方を全員で共有し,議論をしながら新しいアイデアを生み,情報の活用と具体的な提案,現場の知恵と改善で目指した目標の達成(実現)に努力されることを期待しております.最後に「サルづくりは人づくり」であると深く感じているこの頃です.
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