VI. COE形成基礎研究費
「類人猿の進化と人類の成立」
1. 14年度研究全般について
「類人猿の進化と人類の成立」との研究課題で,この5年間研究を進めてきた.文部省(現文部科学省)科学研究費の補助による.当初はCOE(Center
of Excellence)拠点形成基礎研究費,現在は特別推進研究(COE)という名前である.京都大学霊長類研究所および京都大学大学院理学研究科の,類人猿進化を主たるテーマとするスタッフを主体に1)社会・生態,2)形態・古生物,3)認知・脳科学,4)分子・遺伝の4班構成で研究を進める計画を立てた.これらの学問分野は「霊長類の進化を明らかにし人類の起源を考察する」とする霊長類学の根本的な課題である.研究課題そのものは類人猿を前面としたが,比較研究も重要である.多くの霊長類研究はもとより最近注目を集め始めた動物福祉研究までをサポートし得たと思っている.本成果報告書は日本霊長類学会の機関誌である英文学術雑誌「Primates」と和文を主とした学術雑誌「霊長類研究」の特集号の論文を合本とさせていただいた.これらは最近の成果でありこの5年間の研究成果のまとめたものではない.そこでこの研究期間にすでに発表された論文の別刷りをまとめたものを加えた.以下本研究課題の成果を概説したい.
社会・生態研究
チンパンジー研究の世界的な研究拠点であるタンザニア国マハレに,2人の大学院生を一年間派遣し研究を行った.毛づくろいの詳細な研究がなされた.この行動は他個体の外部寄生虫の除去という毛づくろいされる側にはメリットがある.種々の検討の結果,やはり母親から子供へのものが多かった.一方,チンパンジーが葉を両手で持ち口を付けるという行動に注目した.50枚に及ぶそのような葉の回収検査から葉に死んだシラミが付着していることが明らかになり,グルーミングで捕ったシラミを葉に挟みつぶしてから食べることによる再寄生防止のためと考えられた.また文化的行動パターンの発達でも進展があった.例えば11歳のワカモノオスが「落ちばかき」をした直後,3歳の弟が同じ行動をしたように,幼児期に年長者の行動を模倣する例が多く観察され,いわば文化的行動の伝承が明にされた.同研究地を統括する分担者西田は世界中のチンパンジー研究者と各地のチンパンジーの行動比較を行い,チンパンジーの文化的行動という論文を共同研究者とともにNatureに発表した.ゴリラの研究ではカメルーンとガボンで調査を行い,集団のサイズと構成について観察資料を収集した.低地熱帯林に生息するゴリラでは平均集団サイズが10頭前後で山地林のゴリラ集団に比べ少ないこと,これは前者が果実食で,山地林ゴリラの葉食傾向に比べ採食競合によると推測した.
分担者山極による20年に及ぶゴリラ観察を元に研究成果報告会では「類人猿比較から人間性について何がわかるのか」という考察がなされた.
ウガンダ国カリンズ森林のチンパンジーの研究ではいわゆる人付け,彼らが観察者の存在になれることによるアクセスが容易になったのに加え,別の観点から進展があった.現在のフィールド研究は,他方に自然保護との接点を目指しながら進めねばならない.それほど人間の影響がますます大きくなっている.同地ではいわゆる節度を持ってチンパンジーを観察するエコツーリズムとして,ウガンダ国の森林省の賛同を得て進展中である.ピグミーチンパンジー(ボノボ)の研究でも再開が期待される.コンゴ民主共和国(旧ザイール)ワンバ森林のボノボの研究は日本の研究グループが世界に先駆けて始めたものである.多くの新発見があったが,内戦でここ10年ほど中断していた.研究分担者の古市による現地との接触により,かつて個体識別の明らかな彼らが一頭を除き生存していることが明らかになり,近い将来の研究再開が期待される.さらに比較研究として離合集散型の社会構造を有する南アメリカのクモザルについてパーティーサイズ,菜食,土地利用などが明らかになり,彼らの社会構造について,東アフリカ,西アフリカのチンパンジー社会モデルとの比較研究がまとめられた.
形態・古生物研究
熊本県にあるチンパンジーコロニーの個体を対象とした個体発達の縦断的研究により,チンパンジーにも思春期発達はあるもののヒトほどは顕著ではないとする研究がまとめられた.霊長類研究所では1998,99年にアジルテナガザル2頭,2000年にチンパンジー3頭の誕生があった.彼らを対象とした身体プロポーションの変化等の形態学的発達研究が行われている.それに加え定期的な血液試料採取による血液中の成長ホルモンレベル等の発達変化研究が継続している.さらにチンパンジーの発達研究では,MRIを用いた方法により咽頭構造の変化が調べられた.発声機能と密接な関係を持つヒトの咽頭構造の発達的変化との比較である.ヒトのような言葉の発声には咽頭の沈下と構造の増大が必要とされるが,チンパンジーでは傾向はあるが小さいことが明になっている.DEXA(Dual
Energy X-ray Absorptiometry), pQCT(Peripheral Quantitative Computed Tomography)等非侵襲的方法を用いた研究が進展している.チンパンジー乳児での測定とヒトの乳児との比較により,ヒトはチンパンジー乳児に比べ突出した高い体脂肪含量を示す.これはサバンナに進出したヒトの祖先が時に訪れる低栄養状態に耐えるためと推測した.同様にチンパンジー上肢,下肢の骨塩量発達変化の比較研究がまとめられつつある.霊長類の中で最も速い速度で疾走できるパタスモンキーの運動様式研究もまとめられた.このサルは長い四肢を持っている.このことから人類進化の過程でオーストラロピテクスは下肢が短く歩行効率は良くなかったが200万年前のホモエレクトスは下肢が長く二足歩行が完成したと推測された.またパタスモンキーはよく後肢で立ち上がる.チンパンジーの約8倍,ヒヒの2.5倍に及ぶ.サバンナで捕食者の発見に有利であると推測した.
ヒトを含む霊長類の古生物学,化石発掘による霊長類・人類進化研究は主としてアフリカでなされてきた.しかしながら東南アジアでの化石発掘研究は新た地平を開きつつある.ミャンマー国中央部で中期始新世末期のポンダウン層から多数発見された初期真猿類化石は5属6種に分類された.体サイズも変異に富み,大きい種で約8kgついで5kg,1.5kg,500g,100gと高い変異性を示し,多様な霊長類が生息していたことが明らかになった.また火山灰が発見され化石の絶対年代を3,700万年前とした.高等霊長類である真猿類のアジア起源も視野に入ってきた.他方,タイ国北部のチアンムアン累層での大型類人猿化石(歯)二つの発見もされた.同時に多数の哺乳類化石も発見され生物の多様性も明らかにされた.それら他の動物の化石の比較から約1,100万年前と推測した.東南アジアにおける大型類人猿化石としては初めての発見である.これらはアフリカでの起源と進化という霊長類進化史を書き換える可能性もあり将来の研究が期待される.
脳・認知科学研究
上述したごとく誕生をみたテナガザル2頭とチンパンジー3頭について,統制のとれた実験条件下での発達研究が進展している.テナガザルでは身体的成長はマカクであるニホンザルとほとんど同じか少し早い.一方,種々の行動の初出はニホンザルとチンパンジーの中間に位置し,類人猿としての特徴を示している.テナガザルは自らのテリトリーの境界域でテリトリーソングを発することが知られているが,それらが一才で発出されることも明かとなった.チンパンジーの発達では,24時間ビデオ撮影観察により,ヒトと同様な新生児微笑を示すこと,誕生直後はすべて母親依存であるが生後一年を過ぎる頃から子供達の間での遊びが始まること等,今後ヒトの発達過程との詳細な比較考察研究が可能な記録が集積できている.他方MRI等を用いた脳全体および脳各部位容積の発達的増加等のデータも集積され,ヒトとの比較解析研究が進行している.チンパンジーの脳の発達では,脳のサイズの拡大は,1才まで急速に拡大しその後減速すること,またT1強調画像で高信号を示した大脳白質と判断される部分が人と同様にゆっくりと発達することを示した.成体のチンパンジーのMRI研究では,ヒト,チンパンジー,テナガザル,ニホンザルのMRI画像により脳の左右差を検討した.側頭溝に沿ったスライス画像でヒトとチンパンジーでのみ左右差が見られた.他方テナガザル,ニホンザルでは左右差はなかった.ヒトの男性で5-8%存在する赤緑色盲色弱はマカカ属サルのオスではきわめて少なく約0.4%であることがわれわれの研究で明らかになっている.そこでオスチンパンジー約100頭のDNAを検索し,1頭の色弱個体を発見した.網膜応答記録,色弁別行動実験から,ヒトの色覚異常と相同であることを示した.他方,不幸なことではあったが,チンパンジーが死産児を出産し,末期胎児脳の組織を検査する機会があった.ヒトと大型類人猿の脳の前部帯状回に存在し,自律神経・内分泌系制御,発声発語等と関係するとされるスピンドル細胞がすでに胎生末期のチンパンジーにあることが明らかになった.また現在では放射性物質を投与した動物は実験後の殺処分という「法」の関係で類人猿を用いた研究は出来ないが将来に備え,18Fとアカゲザルを用いPETのシミュレーション実験に成功した.
飼育下チンパンジーの認知研究では「概念」の獲得という観点での検査を行った.チンパンジーは「花という概念」を持ち,見たことのない花を花であると認識することが可能である.刺激として写真の代わりに,正確に描写した絵,カット画,白黒の線画を用いたところ個体により成績が異なり全てのチンパンジーが,ヒトが使用している絵画的表象を認識できるわけではないことが明らかとなった.
分子・遺伝研究
テナガザルの社会研究で進展があった.テナガザルは1頭のオスと1頭のメスが厳格なペアー型社会を作るとされる.遺伝分析による彼等の血縁判定を目的とし,ヒトおよびニホンザルで開発された,高い多型性を示すマイクロサテライト分析用プライマーからテナガザルに応用可能なものを16種選定した.インドネシア東カリマンタン島の隣接する野生テナガザル6群の解析を行い5群の父・母・子関係を明らかにした.さらに森林火災により生息地が縮小した際,テナガザルの両親は自分たちの息子とその相手(嫁),また他の両親は娘とその相手(婿)達にテリトリーの共有を許した.火災より4年後にはそれぞれの血縁集団はもとのペアー型に戻り,相互に敵対的になっている.テナガザル社会の可塑性の世界に先駆けた発見であった.他方,コンゴ民主共和国東端のカフジ国立公園にて収集したゴリラ2群の体毛サンプルを用い,遺伝分析を行った.変異性に富むミトコンドリアD-Loop領域590bpを増幅し塩基配列を決定した.カフジ群44試料内で18の,イテベロ群14試料内で9ハプロタイプが見つかった.しかし1ハプロタイプが共有されているのみで,200km離れた両群で連続した森があるにもかかわらずメスの移動がきわめてまれであることが解った.分子・遺伝の研究分野では,類人猿を研究対象とする場合,彼らを一時的にせよ捕獲し血液などの試料を採取することは全く不可能である.体毛,尿,糞,彼らが繊維質の食物を食べ吐き出したシガミカス等を出発とし,PCRによる方法を検討してきた.その際現地のトラッカー等の収集者や分析担当する実験者からの汚染をさけることは困難である.そこで対象とするDNA領域でヒトには存在し,類人猿には存在しない制限酵素サイトを検索した.汚染されたヒトのDNAのみをPCRの前に破壊しておこうという方法である.モデル実験では成功した.現在実際の極微量試料の条件を検討している.
霊長類は基本的には果実,葉食であるが,種々の食性を有する.食物消化の第一段階である胃の蛋白消化酵素ペプシンについて,各種霊長類についての進化研究が進展した.ヒトはペプシンとして多くの分子種を持っている.しかし南アメリカの新世界ザルでは分子種は少ない.アジアアフリカの旧世界ザル,類人猿と進化するに従い分子種は増加する.他方ペプシンはよく切断する基質やあまり切断消化できない基質がある.ペプシンの分子の多様化はいろいろな食物に適応する方向の進化と考えられる.他方種々の哺乳動物胃のペプシン活性には大きな差違がある.例えば肉が主要な食物である食肉目では活性が低く,逆に果実や葉が主食である霊長類で高い.植物の場合タンパク質がセルロースマトリックに囲まれており,またタンニンなどの阻害剤を含む.それ故に活性を高くしていると推測した.また飼育下の4種の類人猿で,尿や糞等の非侵襲的試料を用いた生殖関連の内分泌状態解析のための方法が確立された.野生類人猿に応用可能で,今後自然状態での試料の採集と行動観察で彼らの行動のより深い考察が可能になると期待される.霊長類研究所では15年来各種霊長類,動物からのDNAを精製し保存してきた.3000個体を越え,霊長類DNA研究の拠点として機能していると言える.それらのDNA試料を用い分析した.類人猿における脳内性格関連神経伝達物質の遺伝子(岐阜大農との共同研究),進化の過程でゲノムに進入したレトロウィルス関連遺伝子の霊長類における進化研究(大韓民国釜山大学理との共同研究)でも進展があった.
(文責:竹中修)
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