最小存続可能集団の定義にむけた
孤立個体群の生態的・集団遺伝学的研究

 研究計画

 孤立した地域個体群の絶滅リスクは、遺伝的多様性の減少に伴い上昇すると考えられている。繁殖に関わる個体数、つまり集団有効サイズは、孤立個体群の存続を決定する主要因とみなされている。適応度や進化可能性(進化能力)の維持、あるいは有害突然変異の蓄積効果回避に必要な最小繁殖個体数の意味で最小存続可能集団サイズという言葉が使われるが、このサイズは505,000の幅で考えられている。保護関係者の間では、便宜的に300500頭という値が使われることが多いが、理論的な根拠は乏しい。一方、個体群間の個体の移住は、個体群孤立を干渉する力となる。また、地域個体群の構成(ひとつの社会集団からなっているのか複数の集団からなっているのか)、複数の集団からなる場合それらの間の個体の移動の頻度、各社会集団内の性・年齢構成なども地域個体群の存続に影響を及ぼす。しかし、こうした地域個体群の動的構造と存続可能性の関係に関する研究は、たいへん遅れている。

 
チンパンジーの子ども
(ウガンダ共和国 ・ カリンズ森林保護区

 このように、個体群の孤立は保全研究の最重要課題のひとつであるが、多くの未解決の問題を抱えている。特に、地域個体群の定義法、有効サイズと生息サイズの関係、個体群サイズの時間的変動の影響についての研究が遅れており、霊長類に限らず多くの野生生物の管理計画でもこれらの基礎研究の裏付けが欠けている。人間活動の拡大に伴う生息地の撹乱・破壊の進行を考えると、実現可能なうちにこういった研究を早急に進め、科学的根拠にもとづいた保護管理計画をたてられるようにする必要がある。

 本研究では、ニホンザル、南アジアのマカク、アジア・アフリカの類人猿の3つを対象に、以下のテーマに焦点を絞った生態学的・集団遺伝学的研究を行い、それらの成果を総合して孤立地域個体群の存続可能性についての理解を深め、保護の現場に活かしたい。

1) ニホンザル 

現在の分布から判断して他地域との孤立が予想される下北半島と房総半島の個体群、ならびに島嶼隔離された金華山(宮城県)と屋久島の個体群を対象に、他地域との遺伝的相違を調べ、孤立の判断基準、個体群の定義を検討する。
遺伝標識でオスの移住を定量し、個体群の遺伝的孤立の回避に果たすオスの役割を検証する。
下北半島と房総半島のサルを対象に、遺伝子データを個体群動態の記録と照合し、サイズ変動と遺伝子多様性の関係から通時的変化が繁殖や生存に及ぼす効果を推定する。
幸島(宮崎県)の長期観察記録と遺伝子データを照合し、センサスサイズと有効サイズの関係、近交弱勢の影響などを生態学的、遺伝学的に評価する。

2) 南アジアのマカク

バングラデシュの多数の都市や集落に孤立するアカゲザル個体群の生態学、遺伝学研究により、個体群の維持機構、相互交流の意義、地史的背景と個体群存続の関係を明らかにする。これらの個体群は、定義するまでもなく明らかに他地域から生態的に孤立しているので、比較研究のよいモデルになる。
インドのアカゲザルとボンネットモンキー、スリランカのトクモンキーを対象にした、生態遺伝学的研究。バングラデシュのアカゲザルの研究で得られる結果と比較して、環境の違いや地史的背景が異なる種にみられる個体群維持機構の多様性を調べる。
コメンサリズム(住家性)を示す霊長類の適応力と個体群生態学的特徴に関する研究を行う。

3) 類人猿

 
ボノボ
(コンゴ民主共和国・ ルオー学術保護区) 
・アフリカのチンパンジーとボノボ、ボルネオのオランウータンを対象として、非侵襲的に採取される糞サンプルを用いてマイクロサテライトのDNAを分析する方法を確立する。従来糞サンプルの分析で用いられてきたミトコンドリアDNAの分析に加えて、開発途上のマイクロサテライトのDNA分析法を確立することにより、飛躍的に多くの遺伝子情報が得られる。

・この手法を用いて、地域個体群のサイズおよび個体群間・個体群内の個体の移動の頻度と遺伝子多様性との関係を調べる。

・類人猿は、ほ乳類全体でもきわめて珍しいメスが集団間を移動する父系集団をつくるが、この特徴が集団内、地域個体群内の遺伝子多様性や最小存続可能サイズに及ぼす影響を、他の生物種と比較して研究する。
・数十年にわたる長期継続調査が行われてきた調査地で蓄積された人口動態に関するデータを用い、さまざまな変動リスクを計算に入れた最小存続個体群サイズの研究を進める。





 
年次計画と方法

平成22年度
 1
血液等のサンプルが利用可能なニホンザル(下北半島、房総半島)や南アジアのマカクの研究は、遺伝子マーカーの検索を進めながら、必要に応じて追加サンプルを採取する。

 
類人猿を対象とする研究では、非侵襲的方法で遺伝子分析を行う手法の基準化を目指す。具体的には、主として糞を利用したマルチ遺伝子マーカーのスクリーニング系を確立してルーチン化し、次年度以降の現場への応用を図る。
 3
遺伝学研究では性特異的マーカー(Y染色体マーカーとミトコンドリアDNAマーカー)を利用したハプロタイプの検索と、核の常染色体マーカー(反復配列多型:STR)を利用した個体や個体群の遺伝子型分析を進め、遺伝子の分布と伝達に関係する基礎データを得る。
 4
個体群動態や適応度に関係する生態学的解析では、利用可能な資料を発掘、整理し、データ化を進める。また、個体群の生態観察とともに、遺伝子分析に利用するサンプル採取を進める。


平成23年度 
ニホンザルについては、幸島における調査を重点的に進めるとともに、他地域では調査地周辺にもサンプル採取地域を広げて、特にミトコンドリア遺伝子ハプロタイプの検索によるオスによる遺伝子拡散を調査する。

バングラデシュの孤立アカゲザル個体群についても、新たなサンプルの採取と分析を進め、非侵襲的手法が利用できるようになった場合には森林部の個体群(分布の連続性が強く、都市の孤立群のコントロールに利用できる)についても、同様に遺伝子分析を進める。 

人猿については、継続観察とともに、前年度に確立した方法により遺伝子検索を開始する。メス特異的遺伝子の分布からメスによる遺伝子拡散を推定するため、調査地域周辺の個体群についても観察やサンプル採取を行う。



平成24年度 
1  ニホンザルでは、これまでの成果をふまえて孤立を計る指標を考え、地域個体群の定義に役立てる。金華山と屋久島のサルでは、遺伝的多様性と歴史的変動も考慮した個体群サイズとの関係を調べる。隔離された閉鎖個体群が示す遺伝子多様性に対するボトルネック効果(島嶼化の際のサイズ減少とその後の拡大)や歴史的なサイズ変動(火災流や豪雪などの自然災害による個体群崩壊など)の影響を、連鎖不平衡やヘテロ接合体過剰を指標として、統計的に評価する。
南アジアのマカクでは、コメンサリズムの生物学的背景を成果にもとづいて解釈するとともに、極端な個体群の孤立と維持を可能にする社会的要因(生物学的には人的要因)についても検討する。
 3 類人猿については、引き続き観察を継続しながら、生態学と遺伝学の結果を比較する分析を進める。地域差に注目しながら、違いがある場合は、その原因についてさらに検討する。 

トップページへ