ボノボ(林原)研究部門の発足のお知らせ

パン属2種のうちチンパンジーは日本に334人いるが、ボノボはゼロである。向こう3年以内に、アメリカ動物園水族館協会の協力を得て日本にボノボ1群5人を導入する計画である。研究の場所は岡山の林原類人猿研究センター(GARI)で、研究は霊長類研究所のボノボ(林原)研究部門(寄附講座)が共同しておこなう。当該部門は、松沢哲郎教授(兼任)、平田聡准教授(客員、本務は林原類人猿研究センター主席研究員)、山本真也助教(専任)の3名で構成される。

人間の本性をチンパンジーやボノボとの比較から解明する


目的: 現代社会の直面するさまざまな課題がある。たとえば人口比でみても日本の自殺率は先進国中第1位である。交通事故の3倍の年間約3万人が自殺している。その背景にある「うつ」や、ひきこもり、児童虐待、家族崩壊、著しく伸びた高齢期の暮らしも問題だ。こうした日々の暮らしを変える力になるような科学的研究が必要だろう。そのためには、「人間とは何か」という普遍的な問いに、具体的かつ実証的に答える基礎科学研究が必須だ。「人間という存在のまるごと全体」と「わたしという個性の由来」の双方の理解が重要である。なぜなら現代社会の直面する課題は、社会全体の問題であると同時に個々人のレベルでの解決を必要とするからである。そこで「アウトグループ」という発想から人間を科学する視点を提起し、「チンパンジーとボノボという存在のまるごと全体の理解」と「個性の由来」の双方を理解する。個性はうまれつきのゲノム的基盤と、教育による文化的基盤によって形成される。本研究は、「人間とは何か」という問いに対して、文理融合の基礎科学として霊長類学からの答えを導く。例えていえば、三角測量の視点だ。チンパンジーとボノボの厳密な比較を基線として、チンパンジーから見た人間、ボノボから見た人間を描き出すことで、従来まったくなかった人間理解が進むだろう。ヒト属2種(サピエンス人とネアンデルタール人)は、約3万年前の後者の絶滅によって、直接の比較研究はできない。しかしパン属2種(チンパンジーとボノボ)の比較研究はできる。研究目的は、1)心を形成する諸要素(知覚・記憶・感情等)についての研究を進めるとともに、その基盤となる脳の働き、さらにSNP解析を通じた個性のゲノム的基盤を明らかにする。2)個体レベルを基礎として、個体と個体の「間」になりたつ社会関係の解析をすすめる。親子関係、仲間関係、さらには新たな視点としての群れ(社会集団)間の文化的相違の研究である。3)さらに、ボノボを研究対象に加えることで、パン属2種の心、脳と身体、暮らし、ゲノムの厳密な比較研究を世界で初めておこなう。4)以上の研究を並行して実施することで、人間の心の進化的基盤を、人間とチンパンジーとボノボというヒト科近縁3種の比較を通じて明らかにし、現代社会の直面する人間の心の諸課題について科学的に妥当な指針を与える。



世界で初めての、野生と飼育の双方でのボノボの総合研究

チンパンジーは、男性優位で殺害が多く子殺しをして多様な道具を使う。 他方ボノボは、女性優位で殺害が皆無に近く、したがって子殺しも無く、道具をほとんど使わない。いわば平和共存型の社会である。

コンゴの内乱が終息して、野生ボノボ研究が復活した。しかし、地球上で最も到達しにくい調査地のひとつである。アフリカ中央のコンゴ盆地の最奥部で、ザイール川を遡上すると1週間以上かかる。チャーター飛行機は片道100万円にもなる。それでも、ここは日本が世界に先駆けて最初にボノボ研究に着手したところであり、そのパイオニアである加納隆至(京大名誉教授)は「ニューズウィーク2009年7月8日号」で、 「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれた。その調査地コンゴのワンバでの研究を引き継ぎ発展させることは日本の誇る固有な国際貢献である。
霊長類研究所の社会生態研究部門では、加納教授以来の伝統を受け継いで野生ボノボの研究をしてきた。今回の新部門は、そうした研究を支援し補完するものだといえる。

ボノボは、チンパンジーとごく近縁であるにもかかわらず、 女性が男性よりも優位で、殺しあうことがない。直立二足歩行する姿はまるで人間と同様だ。しかし道具はほとんど使わない。つまりチンパンジーときわめて好対照の進化を遂げているヒト科近縁3種の共通祖先から、人間は、チンパンジーのような特性も、ボノボのような特性も、その本性の中に受け継いでいるはずだ。そうした問題意識を基礎として、ワンバでの野外観察と野外実験をおこなう。その一方でアメリカから1群5人のボノボを入手できる見通しがついた。それを飼育して、世界に先駆けて日本で初めてボノボを対象にした総合研究を進める。つまり、チンパンジーと同様の手法を適用して、その心と脳、身体、くらし、ゲノムの研究を推進する。ボノボの性行動(セックス)はじつに多様だ。まだ子どもを背負った女性が、他の女性と、対面で性器をこすり合わせる行動をする。老若男女のすべての組み合わせで性行動をする。おそらく性が社会的きずなを作る重要な行動になっており、チンパンジーでは見ることのできない、人間の本性の進化的起源が見られるだろう。


日本はTICADなどでアフリカ支援をうたっているが、野生のチンパンジーとボノボ研究は日本ならではの国際貢献といえるだろう。



人間とは何か: パン属2種の心の研究から、人間の本性の進化的基盤の理解に向けて一点突破・全面展開する

コンピューターを使った課題でチンパンジーの認知機能を引き出す研究は、アイ・プロジェクトが確立してきたユニークな研究方法であり、他国の追随を許さない。チンパンジーの子どもの記憶力が人間のおとなより優れていることを世界で初めて発見した。チンパンジーの子どもは、一瞬見た1から9の数字が画面のどこにあるかを記憶できる。こうした能力の発達的変化を探る。


新たな視点からの研究として、画面への接触ではなく、「トラックボール」(マウスを逆さまにしたような入力装置)を使って、自分の行為の結果として動くカーソルを識別する課題に取り組み、「自分の行為の結果を認識できる」という視点から「自己認識」について調べる。



新たな装置の開発

「立体映像モニター用メガネ」を装着して、コンピューター課題をするチンパンジー。奥行き感についての研究が可能になる。
アイ・トラッカーと呼ばれる新たな装置を導入し、チンパンジーがどこを見ているか、角膜反射を利用した視線解析で人間とチンパンジーの注意の機構の違いに迫る。

 


「対面検査」という日本が培ってきたノウハウ

  欧米諸国の研究では、  「おとなになったチンパンジーは危険だ」という迷信があった。われわれの研究チームは世界に先駆けて、参与観察研究を始めた。つまり、彼らの暮らしの中に溶け込んで、人間とチンパンジーが一体となったユニークな研究である。いったん人間とチンパンジーやボノボのあいだに信頼のきずなが構築できると、たとえ約1.5倍の体重があるおとなの男性でさえ、人間の子どもと同じように対面検査できる。日本固有のユニークな研究法だ。


パン属の脳とゲノムの研究:心と個性の生物学的基盤


A)おとなしくしてもらって脳波をとる

B)MRIで脳の画像を撮影する

C)死後の献体利用を進めている

これまでのわれわれのグループの研究から、チンパンジーの脳の研究が進んでいる。世界で初めて、麻酔をかけず覚醒したままでチンパンジーの脳波記録に成功した(PLoS ONE発表)。また脳のMRI画像を発達的に収集し、チンパンジーにも喉頭下降現象があることを見つけた(PNAS発表)。日本にいる334人のチンパンジーの全個体登録を進めてきたので、死後すぐにその脳をもらいうけて、ゲノム的基盤を探る研究を進めている。ボノボでの研究資料の蓄積はこれからの課題である。。

2005年にチンパンジーゲノムが解読された。DNAの塩基配列でみて、人間とチンパンジーの違いは、約1.2%だった。ボノボの全ゲノム解読はまさにこれからの課題だ。チンパンジーについては、「個性」に着目して心のゲノム的基盤を探る研究を開始している。母親アイと父親アキラと息子のアユムを採血し、全ゲノム配列を決定しつつある。SNP(1塩基だけの多型変化)を追跡することで、「息子で、何割が父親由来の遺伝子が優先的に働いていて、何割が母親由来の遺伝子が働いているか」を世界で初めて知ることになる。こうしたゲノムの視点からの研究もボノボを対象におこないたい。