日本学術振興会先端研究拠点事業
第2回国際レクチャー 事業番号32
共催:日本霊長類学会
今西・伊谷記念霊長類学講演「霊長類と保全生態学」
"Becoming a Conservation Biologist"
日時:2004年7月3日(土曜日)
場所:国際交流会館フロイデ、犬山市
題目:今西・伊谷記念霊長類学講義「霊長類と保全生態学」
日本の霊長類学を創出した今西錦司と伊谷純一郎を記念して、霊長類学の分野においてパイオニア・ワークを成し遂げた研究者に講演していただき、霊長類学の軌跡を振り返るとともに、新たな風を吹き込む考え方や方法論について検討することを目的として、「今西・伊谷記念霊長類学講義」が開催されている。2002年の今西生誕百年の節目におこなわれた第1回講義の講演者は、フランス・ドゥバールだった。
第2回にあたる今回は、日本霊長類学会のシンポジウムとして開催された。おりしも、日本霊長類学会が創立されて本年で20周年となる節目の年である。基調講演は、トーマス・シュトゥルーゼーカー(ThomasStruhsaker)である。
日本の霊長類学は個体識別をもとに長期連続観察という手法によって、世界に先駆けて数々の新しい発見を成し遂げた。この方法は世界各地のフィールドで実践された。しかし、その手法への反省もある。今回は、餌づけによらない「人づけ」という手法で自然環境下の霊長類を直接観察し続けたパイオニアとして、シュトゥルーゼーカーを招いた。彼は、ウガンダのキバレの森で、生態学的視野にたった霊長類研究を一貫しておこない、"The
Red Colobus Monkey" (1975), "Ecologyof an African Rain
Forest" (1999)などの著作にまとめた。
日本の霊長類学が初期に用いた手法は、野生ニホンザルの群を「餌づけ」によって馴らし、その行動や社会交渉をつぶさに観察するというものだった。しかし、人工的な餌場にサルを集中させたことは、栄養条件や社会環境に大きな影響を与える結果となった。サルの社会生活の大半が「食べる」という行動から成っていることを考えると、餌づけはサルの自然生活を著しくゆがめているといわざるをえない。
餌づけによらず、自然環境下で気象や植物のフェノロジーをモニターしながら霊長類の行動を記録していくことは、霊長類の生態と社会を関連づけて考えるためには不可欠である。生態学的視点にたった野生霊長類研究を展開し、霊長類自らが選び取った自然環境で展開される生活史を描き出した点で、シュトゥルーゼーカーのしごとはパイオアニアとしての価値をもつと言えるだろう。
同様な「人づけ」による野生ニホンザル自然群の研究が、日本では屋久島でおこなわれ、そこから多くの研究者が育ってきた。それがアフリカなどに再展開して、生態学的視点をもった霊長類研究が進められている。さらに言えば、「野生霊長類とその生息地全体の保護」という視点は、今後の霊長類学の発展を考えるうえで欠くことができないものと言えるだろう。野生霊長類の研究にとって、対象となる霊長類とその生息地をどう保全していくかという問題は、避けて通れない重要な課題である。
シュトゥルーゼーカーと同じ方向性をもった研究として、2人の日本人研究者に話題を提供してもらった。日本とアフリカをフィールドに、「霊長類と保全生態学」という課題に正面から取り組み、行政や地域の住民と協力しながら、新しい保全の理念を模索し続けている。そうした話題提供をもとに、霊長類学と霊長類研究者の今後のあり方について討論する。
話題提供:
山極寿一(京都大学) ゴリラの長期研究:研究と保護の両立をめざして
丸橋珠樹(武蔵大学) ヤクシマザルの長期研究:解明できたこととこれからの課題
トーマス・シュトゥルーゼーカー(デューク大学)"Becoming
a Conservation Biologist"
司会:松沢哲郎(京都大学霊長類研究所)
ゴリラの長期野外研究-研究と保護の間で
山極寿一(京都大学大学院理学研究科)
ゴリラの野外研究は日本と欧米でほぼ同時期にはじまったが、その推進力となったのは日本では霊長類社会学、欧米では先史人類学という異なる分野だった。日本モンキーセンターによる類人猿学術調査隊は1958年から1960年にかけて3回の調査を行い、その最初のターゲットがゴリラだった。今西錦司、伊谷純一郎、河合雅雄、水原洋城が主としてウガンダのヴィルンガ火山群、カヨンザの森でマウンテンゴリラの調査を実施したが、1960年に勃発したコンゴ動乱で調査を断念しなければならなくなった。同時期にヴィルンガで調査を行ったジョージ・シャラーはゴリラについての最初のモノグラフを書き上げたが、やはり撤退を余儀なくされた。
その後、長期にわたるゴリラの調査に成功したのは1967年にヴィルンガで調査を始めたダイアン・フォッシーである。野生のゴリラの個体についての長期にわたる資料が残っているのは未だにヴィルンガだけであり、フォッシーの功績は大きい。私は1980-1982年に彼女を指導教官として、ここでゴリラの調査を行った。しかし、ヴィルンガでは国立公園化にともなって土地を追われた住民との間でトラブルが絶えず、ゴリラの密猟が勃発して深刻な保護上の問題を抱えていた。1985年にフォッシーが何者かに殺害されたのも、この問題と無縁ではないだろう。
フォッシーの死後、私はこの地で研究を続けることを断念し、私が最初にゴリラの調査を始めたコンゴ民主共和国のカフジ・ビエガ国立公園でヒガシローランドゴリラの調査を再開した。ここは、標高600mの低地から3000mの高地までゴリラの生息域が連続していること、全生息域にわたってゴリラが近縁なチンパンジーと同所的に共存しているという利点がある。しかも、ここでは観光目的とはいえ、ヴィルンガと同じ頃からゴリラの人付けが進み、ゴリラを間近で観察できる条件が揃っていた。
私はヴィルンガでの経験を踏まえ、
1)研究だけの目的でゴリラとチンパンジーを人付けし、
2)コンゴ人の研究者と共同で研究を実施し、
3)地元に自然保護のためのNGOをつくる、
という目標を立てた。1991年に起こった首都の動乱、1994年の隣国ルワンダからの難民流入、1996年、1998年の内戦勃発によって多くの苦難を強いられたが、徐々にこの目標はかなえられつつある。研究と保護を両立させることは至難の業であるが、それを推進することが研究者の良心であろうと思う。保護は地元の人々の協力なしには成立しない。ゴリラの保護が地元の人々の喜びにつながるように努力していこうと思っている。
カフジのゴリラ
ゴリラと高校生
ヤクシマザルの長期研究。これまでにわかったこととこれからすべきこと。
丸橋珠樹、武蔵大学人文学部
1993年に屋久島は世界自然遺産に登録された。この島は、日本ザルの分布域の南限を占めており、島に生息するニホンザルは、亜種ヤクシマザルと分類されている。最初のフィールド研究は、伊谷純一郎と川村俊蔵によって行われ、小さな群れが連続して分布し群れは強いテリトリアリティーをもっていることを明らかにした。1973年以降、屋久島低地の亜熱帯自然林に生息するヤクシマザルを対象として、人づけと個体識別にもとずく長期研究が開始された。
調査域である屋久島西部、国割岳西斜面に生息するニホンザルの個体群密度は、1平方キロメートルあたり100頭を越えている。この30年間の調査のなかで、4群が群れ消滅し、大量死が1999年に一度観察された。この地域では、個体群生息密度は、環境収容力に近く、そのため、土地すなわち食料資源をめぐる群れ間の競争が厳しく、群れの消滅、群れの分裂、群れ外オスによる群れの乗っ取りなどの社会変動が頻繁に起こっていると考えられている。ここでの研究は、ニホンザルの社会変動研究のモデルを明らかにするとともに、照葉樹林と落葉広葉樹林との比較社会生態学的研究の基礎データを提供した。
霊長類の長期研究を推進し、彼らの生息環境を保全するには、以下の3つのことが大切である。
(1)博物館活動と教育
(2)自然林の保全
(3)野生動物の保護管理
地域住民の研究者に対する信頼は、長期研究と自然保護の最も大切な原動力の一つである。離島である屋久島では、大規模な伐採がなされ、世界自然遺産として残された森林は、島の面積のわずか5分の一でしかない。地域住民と研究者とのたゆまないこの3領域での協力こそが、島の将来の選択肢を豊ににし、現在の問題をより賢く解決すると信じている。
屋久島に生息する日本ザルの亜種ヤクシマザルの群れが休息しているところ。
屋久島での森と人の歴史を聞く、屋久島フィールドワーク講座の受講学生たち。
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