シュトルーゼーカーの屋久島・幸島の旅

京都大学農学部2回生 後藤龍太郎

保全生物学の泰斗トーマス・シュトゥルーゼーカー氏を屋久島・幸島に案内し、荷物持ち兼通訳の役目をする機会をいただいた。その旅のようすを、随行者の目から見た私的な記録として示したい。

出発以前

僕は緊張していた。荷物持ちに不安はないが、英会話はうまくない。それでも、こんなチャンスを逃してはいられない。語学の試験やバイトの予約を投げうって、行くことに決めた。付け焼刃とは思ったが、まずトーマス氏のことを知るために、著書をアフリカセンター・理学部動植物図書館で探した。一冊は最近出た厚い本「Ecology of an AFRICAN RAIN FOREST」、もう一冊は伊谷純一郎先生贈呈の「THE RED COLOBUS MONKEY」。どちらも眼を通すことぐらいしかできなかったが、眼を通した。


トーマス氏の著書

(日程)
7月3日 学会。記念講演を聞く。
7月4日 モンキーセンター。犬山から宮崎県幸島へ。
7月5日 幸島でサル見。幸島から鹿児島県桜島へ。
7月6日 桜島から屋久島へ。屋久杉ランドで屋久杉観察。
7月7日 午前淀川にてバードウォッチング。正午清野さんと合流。午後サルを観察。
7月8日 西部林道で一日中サルを追跡しつつ観察。
7月9日 ゼロエミッションを見学。トーマス氏を大阪へ送り届ける。



7月2日

18時ごろ京都を出発。今回購入した電子辞書(3万円)を懐刀として、持参。
英会話「とっさのひとこと」を読みつつ、鈍行で犬山に到着。21時30分。
1年ぶりの犬山の風景は何も変わっていない。ついこの間着たような感じがする。道に迷うがまもなく、霊長類研究所に到着。22時30分。
お風呂に入り、旅行のスケジュールを再確認し、就寝。


7月3日 土曜日

シュトゥーゼーカー氏と初顔合わせ

休憩室のような特別室で、トーマス氏と初顔合わせをし、握手する。思いのほかやわらかい手をしていた。白髪で長身、物腰の柔らかい、心優しそうな紳士である。
部屋には、他にマイク・ハフマン先生、山極先生、松沢先生、丸橋先生、がいらっしゃった。皆大物ばかり。先生同士でアフリカでの研究などの話をしていた。


左奥から丸橋珠樹、山極寿一、松沢哲郎、
前列左からトーマス・シュトゥーゼーカー、河合雅雄(敬称省略)

トーマス氏にサインをもらうが、「To Ryutaro」ではなく「To Teturo」であった。松沢先生が印象深かったに違いない。松沢先生に今西錦司の写真集をいただいたので、その場にいたビッグな先生方にサインをいただく幸運に恵まれた。

学会

トーマス氏は今回の伊谷・今西記念講演のメインゲストだ。僕が会場に入っていくとき、流れていた映像(レッドコロブスモンキーがヤシの木に登っている姿を映したもの)が印象的だった。氏が保護を進めているのは、このサルなのだ。

講演の後に、「餌づけを行わず、人づけによって研究を行ってきたのはなぜですか?」という質問が聴衆の中からでた。氏は「人間がサルや野生動物に餌を与えると、不自然な状態になり、野生動物の本当の姿は捉えることができない。人とサルの関係が不平等なものになってしまう。病気を持ち込む可能性もある。」と答えていた。「餌づけがもたらす不自然さとは、どういうものなのか?」「人づけとは実際は、どのようなものであるか?」ということが気になった。屋久島幸島という日本サル研究のメッカを訪れる今回の旅で、研究者やトーマス氏から、より深い理解が得られるようにがんばろう。

このとき、トーマス氏の通訳をしていた山口真理子さんはアメリカのイエール大学からきたサマーインターンで、まだ学部の3年生だという。自分と年もほとんど変わらない。自分も「頑張らなくては」と強い刺激を受けた。

18:00 夕食パーティー。昨年ポケゼミで出会った方々、SAGAで会った方々、屋久島ザルであった方々と再会を果たす。西田利貞先生ともお話をし、「研究するなら是非マハレで」というありがたい言葉をいただく。

20:30 霊長類研究所に帰る。泉さんにパソコンを使わせてもらい、明日の空港までの電車の時間を調べる。


7月4日

モンキーセンター

松沢先生と一緒に、トーマス氏をホテルまで迎えに行き、そのまま松沢先生にモンキーセンターまで送ってもらう。ここからがトーマス氏と僕の旅の始まりだ。

モンキーセンターに入場。トーマス氏はアフリカを研究の中心に活躍してきた霊長類学者だ。それゆえ、アフリカ館では、サルを観察しながら、その特徴を詳しく教えてくださるので、まるで僕がガイドされているようだ。アフリカ館では、狭い飼育室で、サルが行ったり来たりする異常行動を見て、「飼育施設が狭すぎてひどい」と言われる。動物園の環境エンリッチメントは重要な問題だ。


クモザルを見るトーマス氏

日差しが強く、二人とも暑さにヘロヘロになった。一通り見て、犬山国際観光センターフロイデ(学会会場)に戻った。
イトーヨーカドーの地下で、2人でラーメンを食べた。客人を、ファーストフードのようなところに連れて行って良いものかと心配だったが、犬山駅前には手頃な店がないから仕方がない。しかし、トーマス氏は気楽な昼食がうれしかったようだ。箸を使うのはうまい。氏は、メンマを見るのがはじめてだったらしく、「竹ですよ」と教えると、驚いておられた。


犬山を出発する

犬山国際観光センターフロイデを13時過ぎに出発。
松沢先生に「今回の目標は、来年の夏休みにキバレに行くきっかけを作ることだからね。」
と励ましの言葉をもらう。キバレには日本の研究者はいないという。日本人として、キバレで研究を切り開く!なんだか力が沸いてくる。
13時24分 犬山線急行に乗る。目指すは西春駅。
13時43分 西春駅到着。
階段を降りると、すぐバスターミナル、空港行きバスに乗り込む。
バスは、先に国内線、次に国際線に停まる。駅から国内線ターミナルまで15分。
14時15分 空港到着。
搭乗待ちで一時間の間に、キバレの地図を書いてもらって、いろいろと説明をしてもらう。キバレには観光客なども来ることができるボランティアの施設があることを知る。キバレ南部では森林再生運動が盛んに行われているという。
15時20分 名古屋空港を離陸。
16時30分 宮崎空港に到着
宮崎は激しい雨が降っていた。幸島の技術官の鈴村さんに出迎えてもらい、車で幸島へ。
鈴村さんは日に良く焼けた、爽やかなお兄さんだ。車の中では、幸島のサルの話、最近の幸島での問題を尋ね、トーマス氏に積極的に通訳する。また、ごみの分別にも興味をもたれるトーマス氏のことを考え、そちらの方も尋ねてみた。


宮崎の海岸で見られる洗濯岩



車内で手に入った情報

・ 幸島には、今9匹の子ザルがいて、一番最近では2週間前に生まれたという。「ここ数日雨が強く、幸島に上陸できていないので、島のほうでは新しく生まれているかもしれないから、早く確認したい」と鈴村さんがおっしゃっていた。

・ 最近幸島と本土の間に砂が溜まってきている。それゆえ、将来地続きになって、サルが本土に出てこないか心配であるそうだ。島からサルが出て行ったら「イモ洗いの文化」はどうなるだろう。

・ 衝撃の事実であるが、イモ洗いは現在行われていなかった。イモ洗いを見られると期待していたので残念だ。現在はイモを与えておらず、麦を与えているという。イモはテレビなどの撮影で年3回ぐらいやるだけらしい。それにもかかわらず、たまにイモを与えても、ちゃんと覚えていて洗うのだそうだ。沢山イモをあげないとイモ洗いはしない。数個上げただけでは、山に持ち帰ってしまうという。たまにしか与えなくてもちゃんと洗えるというのは興味深い。

・ トーマス氏は、1967年の日本訪問の際に一度、幸島に来ているという。そのときに比べて、道は格段に良くなっていると言って驚いていた。当時は道も無かったらしい。



「たぎり荘」に到着

6時ごろ「たぎり荘」に到着。今日は暴風雨だ。
「たぎり荘」で、予想外の事実を知らされる。

一つ目は、このホテルのオーナーである三戸サツエさんという方が、今旅行中でいないということだ。トーマス氏と旧知の仲であり、イモ洗いを世界で最初に見つけた人であるので、トーマス氏も僕も会うのを非常に楽しみにしていたので残念である。しかも、彼女が向かったのはアメリカのサンタフェ。息子さんに会いに行ったそうだ。

二つ目は、今日の暴風雨のせいで、明日船を出してもらえる希望が薄いことだ。この2つの目的が叶わなのであれば、幸島に来たことが無駄足になってしまう。僕もトーマス氏も、必ず幸島に上陸したい。方法を模索する。

松沢先生に、トーマス氏を無事に幸島に送り届けたと電話で伝える。松沢先生は、「一人でガイドしないと意味がないから」と、緊急時を除き、それ以降電話を控え、報告はメールを使うように伝えられた。精神的にも、トーマス氏との2人旅が始まる。

夕食

 三戸サツエさんの不在は残念だったが、夕食は思いがけず、楽しいものとなる。
ここのホテルを今運営しているイカイさん夫婦が、実にトーマス氏向きの人間だったからだ。奥さんのミドリさん(28)は、アフリカのガーナに2年間NGOとして働いた方で、英語が堪能でアフリカについても詳しい。また夫のミキオさん(33)がアフリカや沖縄の楽器の演奏を趣味としている。夕食の宴は、指で鍵盤をはじいて音を出すアフリカピアノの独特のミュージックと、アフリカの話で盛り上がる笑い声とで、とても賑やかだった。トーマス氏もビールが入り、話がはずんでいた。もちろん、ぼくも楽しかった。
トーマス氏の楽しんでいる様子は下の写真からも明らか。


ほろ酔い



幸島の夜

 僕は、夕食で楽しんでばかりいたわけではない。トーマス氏が2人と楽しんでいるうちに、抜け出して、明日も雨が降った場合を考え、スケジュールを調整してみた。しっかりガイドの任務もこなしていたのである。
その晩、天気は最悪であった。幸島への3つの渡し舟にかわるがわる電話しても、「明日雨が止んでも、強風で波が高いだろうから行きたくない」と、漁師らしいぶっきらぼうな調子で答えが返ってくる。なんとか一つの渡し舟に、「明朝6時ごろの天気を見てから、判断してほしい」と頼み込んだ。他は端から「行かない」の一点張りであった。

漁師によれば、波の高低に関らず、明日は昼から干潮になり、船を幸島の港から逃がさないと、乗り上げてしまう。だから、もし船に乗れるとすれば、午前の早い時間だと言われる。
天候予報でも、明日の天気はぐずつきそうだといっている。

明日もし天気が悪く、幸島に渡れないようであれば、予定を変更して、屋久島に入ることも考えたほうがいいかもしれない。次の日泊まる桜島のホテルに電話して、「天気のせいで明日キャンセルするかもしれない。キャンセル料がかかり始める時間を待ってもらえないか」とか、屋久の子に「明日からでも大丈夫か」など、とりあえずの手は打っておいた。しかし、時間が時間だけに、幸島の研究所には電話がつながらない。

トーマス氏に、「明日天気がこのまま悪く船が出ないようであれば、屋久島に行きましょう」というと、僕の緊張した様子を和らげるためか、「心配するな。明日の天気を見てから、フレキシブルに対応しよう」と言われてしまった。「フィールドワーカーは楽天的である」という、昔本で読んだ言葉を思い出す。
残りの日程のスケジュールを英語で書いて、携帯の目覚ましを朝5時50分に合わせて、就寝した。


7月5日 月曜日

6時起床。目覚めてみると、空は昨日の雨がウソのような快晴。行けるかいけないかを尋ねるために漁師さんに確認の電話を入れる。答えは「行ける。しかし、昼は大きな引き潮になるので、幸島の近くには船は置けない。太陽が上りきらないうちに、船は水深が深い港に逃がから、上陸は1時間ぐらいにしてくれ。その条件じゃないといかん」とのこと。何はともあれこれで上陸できる。この情報をトーマス氏に早く伝えたい、と部屋に行くが、いない。1階でイカイさんと話しているのかな?下に行ってみるが、いない。早朝から散歩に出かけたとのこと。

 イカイミキオさんとトーマス氏を探しに出かける。海岸沿いを歩いたが、見つけられなかった。
しばらくして、トーマス氏が帰ってきた。「リュータロ、船がでるらしいぞ!早く飯を食べて出かけよう!」とおっしゃる。トーマス氏は僕よりも早く起きて、港に船が出るか聞きに行っていたのだ。なんという行動力!
朝ごはんを済ませ、幸島に渡る船のところに行く。朝食のときに、英語で書いた計画表を渡すと大いに喜んでくれた。

幸島上陸

 幸島は「島」と言うものの、ほとんど半島である。本土と、島の間は、わずか25-50mである。


手前が船、奥が幸島。左方の入り江に回りこむ。



船に乗り込む。船は、何人まででも1往復3000円。入り江まで5分。
 船は島の左から、回り込む。入り江が見え、船はそこに入っていった。船の音を聞きつけてサルが集まってくる。入り江脇の岸壁に接岸し、上陸。船頭は、麦を撒き、サルはそれを食べ始める。「1時間したら、また来ます」そういって船は出て行った。
 サルに荷物を取られぬよう、サル撮影中のトーマスに代わり、あらゆる荷物をもつ。


   
 
グルーミングに夢中な母ザルが、子ザルの相手をしてやらず、子ザルが必死にしがみつこうとする姿が見られた。朝の幸島の海は美しかった。
1時間20分ほどしたところで、船頭が戻ってくる。そして本土へ戻った。到着と同時に船は、より水深の深い港へ逃げていった。



船が迎えに来た。

帰りに、トムが浜辺でコウイカの軟骨を拾う。息子さんへのお土産である。しかし、あまりの磯臭さに困り、洗って道路に干していた。

幸島の技術官と会う

9時ごろ、鈴村さんから携帯に連絡が入る。予定通り、9時半ごろ研究所へ。「たぎり荘」から歩いて5分。幸島の技官、鈴村さんと冠地さんに会う。冠地さんは幸島で研究が始まって以来ずっと、幸島にいらっしゃる技官の方である。

今朝早いうちに幸島に渡ることができたし、漁師の話では干潮のため船は出せないという話を聞いていたので、できれば11時ごろに幸島を出発して、今日最終のフェリーで屋久島に入りたい、と伝える。幸島の研究所では昼ごろ来る別の団体の相手をしなければならないので、午後3時ごろでないと出発はできないといわれる。

研究所のボートは、水深の深い港に、停留しているので、わざわざ他の港に逃がす必要は無く、幸島に行けるという。「行ける」と言われたり、「行けない」と言われたり、海の交通事情はややこしい。
そして僕たちは、思いがけず再び幸島へと向かうことになった。

トーマス氏から要望があって、「吉場健二氏の海難事故」について、冠地さんに聞いてみた。トーマス氏と旧知の間柄であり、事故で亡くなったことを知ってから、ずっと気にかけていらっしゃったようだ。吉場健二さんとは次のような方である。一つ目は引用文、二つ目は冠地さんに聞いた話を僕がまとめたものだ。


コラム(1)「吉場健二」

(瀬戸口烈司、企画展「今西錦司の世界」の開催にあたって、
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/museumF/news/past/no11/imanishiExhibition.html
より)
吉場健二は、本多勝一とともに京大に学生団体の「探検部」を全国にさきがけて作り、「探検部」の海外遠征隊の第1号となる「東ヒンズークシ学術探検隊」(隊長:藤田和夫大阪市立大学助教授[当時])に本多とともに参加した。大学卒業後はそのまま理学部動物学教室の大学院に進み、サル学の伊谷純一郎の第1号の弟子となる。1967年に霊長類研究所が設置されると、ただちに助手として採用され、インドやボルネオで野生霊長類の観察をすすめた。1968年7月28日、宮崎県幸島のサルを観察にゆく途中、日向灘で小舟が転覆して33才の若さで遭難死した。今西の「探検」と「サル学」の両面を引き継いだ若手第1号は、吉場健二であった。


次に冠地さんから聞いた事故の様子を示す。それによれば、トーマス氏の訪れた翌年、亡くなっておられる。そして、このレポートを書き終えたのは2004年7月27日であるが、36年前のちょうどこの時期に亡くなられたのだと思うと感慨深いものがある。


コラム(2)「吉場健二さんの話」

その日は、外国から訪問者が来ていて、幸島に渡る予定だった。ちょうど台風が来ていて、海は荒れていた。しかし、訪問者を島に連れて行くための下見に、吉場健二と健二の妻の弟は、エンジンつきのボートに乗って、幸島へとサルの観察に向かった。しかし、荒波のせいか、エンジンが停まった。ボートはコントロールを失い、幸島と本土の間で、動けなくなった。仕方がなく健二と弟は、海に飛び込み、幸島まで泳ぐことにした。ここで注意しなくてはならないことは2つある。
一つ目は、海へ、2人同時に逆方向へ飛び込むこと。これをしないと船はひっくり返り、飛び込みに失敗する。二つ目は、幸島に逃げること。本土のほうは切り立ったがけになっていたり、防波堤になっているため、上陸しづらいからである。
 しかし、不幸は起こってしまった。飛び込むタイミングが合わず、船は横転し、健二は海に投げ出された。そして、そのときのショックで方向感覚を失ったのかもしれない。正常時では考えられないことだったが、健二は本土の方向に向かって泳ぎ、亡くなった。そしその遺体は防波堤で見つかったという。
 台風、エンジンの停止、ボートの横転、方向感覚を失ったこと、アクシデントがいくつも重なってこのような事故が起こってしまった。


次の写真は、吉場健二を祭る神社で、たぎり荘の裏にある。屋根の顔は、研究所で見た健二の顔に似ている。

トーマス氏は幸島の研究所を再訪した感想として、「研究所が大きくなった」と言っていた。30年前彼が幸島を訪れたとき、研究施設はほとんど何もなかったそうだ。

幸島再上陸

幸島の研究所から、車で15分ほど、宮崎方面へ進むと港がある。ここに研究所のボートがある。乗り込む。少し幸島から離れているので、ボートはスピードを上げる。風当たりが強く、ボートも少しはねるが、青い空の下、このスピード感はすばらしい。まもなく幸島に到着。干潮なので、入り江のだいぶ手前で接岸し、上陸。冠地さんや鈴村さんは、入り江に集まったサルの間を歩きながら、一匹一匹サルの顔を覗き込んで、チェックしていく。先週生まれた子もいるらしい。

幸島のサルは人に馴れているので、近くまで行っても逃げない。そして、荷物を置いておいても持ち逃げしたり、開けたりしない。これは、「野生のサルに餌をあげてはいけない」という常識が一般人に根付いてきていて、幸島に食べ物を持ち込む人がいなくなったため、サルが「人のかばんの中に餌はない」ことを学習したためだという。餌を与えないと、こんなに礼儀正しいサルになるのか。嵐山のサルにも学習させたいものである。


顔チェック中。左冠地氏、右鈴村氏


ここでは、冠地さんに、幸島のサル、あるいはニホンザル一般についての話を聞いた。この話を、訳して書いたレポートをトーマス氏に渡した。


コラム(3) 冠地さんのはなし

・ オスの人生
オスは5歳頃になってくると、力を持つようになってきて、順位の低い若いメスの猿にとって脅威になってくる。若いメスは、若いオスに攻撃を繰り返すようになり、いざこざが頻繁に起こるようになる。若いオスは、群れを離れて「独りオス」になって暮らすようになる。ただし、秋になって繁殖期になるとメスを求めて、一時的に群れに戻ってくる。
10歳頃になると、大抵群れに戻ってきて、一番下の順位に入る。メスのグルーミングや子供の相手などをして、メスの人気を獲得しながら、オスは順位を上げていく。

・ メスの人生
メスは子供を産んでから、強くなるという。子供を産むと落ち着きや図々しさが出てくる。というのも、子供を育てるためには、餌場で餌を他のサルに譲ってばかりではいられない。図々しくなる必要があるのだ。また、他のサルも親子ザルに対しては、攻撃を控えるそうである。
 また、メスは自分にとって有利になるようにオスを利用する。繁殖期は、順位の高いオスと行動を共にし、気に入られ、他のサルからの攻撃を守ってもらう。順位を上げるのにも役立つ。しかし、最近の研究から、子供の父親は必ずしも、順位の高いオスではなく、むしろ若い「離れオス」であることが多いという。メスはオスを使い分けているのだ。


・ボスは存在しない
  最近各地の報告からボスがいない群れが各地から見つかっているという。サル山や嵐山で散々ボスザルを見てきた僕としては俄かに信じられなかった。野生状態では、木をはじめとしていろいろな障害物があるので、お互いが遮られていたり、逃げ場所がたくさんあったりする。それゆえに闘争が緩和され、群れ全体を支配する明確なボスは生まれにくい。それに対して、飼育下や餌づけされている状態では、サルが一箇所に集中し、闘争が頻繁に起き、力の一番強いサルがボスとして君臨するとされている。
 ボスザルが野生状態で生まれにくいものだとするならば、確かに「餌づけ」は観察を容易にはするものの、サル本来の生態を知る上では弊害になっているといえる。

・ 「幸島に長年勤めていて、何か気付いた変化はありますか?」という質問に対して、
「昔に比べて、サルのパイオニア精神が少なくなった。昔は幸島のサルは海を泳いで、隣の島に渡ったりしたものだが、今はそういうサルはいなくなった。昔はもっとがむしゃらな感じがした。」という。サルにも「やる気」の盛衰があるのだ。遺伝的な問題があるとすれば、「やる気」のないオスのほうが、子供を沢山残し、「やる気」のないサルが増えたのか。あるいは、これも文化的なものなのか。僕は、サルの「やる気の減少」を聞いて「麦洗いの文化を失われたこと」にも関連しているように思えた。人がコンスタントに麦を持ってきてくられるから、食の心配もなく、「やる気」も失っているのだとすれば、餌づけは問題が多い。

・ 「最近何か問題になっていることはありますか?」という質問に対して、
「サルが魚を食べるようになった。幸島に来る釣り人の魚を盗ることで、味を覚えてしまった。また、釣りに使うエビ等の防腐剤を多量に含んだ飼料を釣り人が残していき、それをサルが食べてしまうせいで、サルの体に異常が起こる。はじめはものすごい筋肉質になり、技術官の人でも顔で分からないほどまでに見違える。しかし、その後、急に筋肉が落ち、げっそりしてしまう。」という。


幸島にいるとき、京大理学部の山極先生から電話をいただいた。心配してくれたらしい。「大丈夫です!」と伝えた。幸島は圏内である。


サルたちも入り江での休憩を終えて、森に帰っていき、数も少なくなってきた。僕らも帰
ることになり、記念撮影。

文化は失われた?

今日トーマス氏が気にしていたのはサルの次の行動であった。


地面から直接食うサル。文化は失われた…

一昔前、サルは麦と砂をすくって、海に持っていって、砂を沈め、浮いた麦を食う「麦洗い」の文化が見られた。しかし、今はこのような姿になってしまった。直接口をつけて食べている。文化は失われてしまったのだろうか…(松沢先生の論文で発表されているらしい。)

入り江に入ってこられないサブグループのサルたちが、麦が欲しいためか海沿いの岩場を追いかけてきた。さらば幸島。こうして僕たちは幸島を離れた。            


麦をもらえなかったサブグループのサル


見送るサルの撮影

僕が植物に興味を示しているのを見た冠地さんは、桜島に行くとき幸島の植物リストの冊子をくれた。冠地さん、ありがとうございます。

桜島へ

奥さんのミドリさんは僕と同じ高校(神奈川県立鎌倉高校)の出身だということが分かった。トーマス氏は彼らのことが非常に気にいっていた。


ミドリさんの頭の上にあるのはカニの甲羅



冠地さんの運転で、桜島へ。2時半「たぎり荘」を出発。桜島のちかくに来ると、火山や火砕流の跡が見える。冠地さんから聞いた桜島の火山の歴史や説明を、トーマス氏に通訳した。トーマス氏は火山活動によって作り出される興味深い光景を楽しんでいたと思う。標高1500mもある桜島は美しかった。

 トーマス氏は、僕が朝渡したスケジュールを読んで、「最終日、朝の便で屋久島を出ることになっているが、そんなに早く出発する必要があるのか?大阪のホテルに長く滞在するなら、屋久島に滞在したい」とおっしゃった。車内で航空会社に電話して、予約を変更する。予約先の空席は残り2席。幸運であった。


桜島到着、キバレへの道は厳しいか

夕暮れ午後5時30分ごろ、ホテル「レインボー桜島」に到着した。
この宿舎は鹿児島行きフェリー乗り場から歩いて15分ほどのところにある。
トーマス氏は、座ってばかりで背中が痛いとおっしゃるので、2人で夕食まで散歩に出ることにした。フェリー乗り場まで行って、次の日の出発時刻を確認する。
その後、大正溶岩地帯という溶岩跡の上に付けられた「なぎさ遊歩道」の上を歩く。
夕日の照り返しで暑い。散歩しながら、トーマス氏にキバレに行って自分も研究してみたい、と伝えてみた。

後藤「来年の夏休み、キバレに行って研究してみたいのですが。」
トーマス氏「お金はあるのか?」
後藤「どれぐらいかかるのでしょうか?」
トーマス氏「チケットと向こうでの生活費、合わせて100万ぐらい欲しい。」
後藤「う〜ん、難しいですね。お金はバイトで何とかするとして、キバレで研究する方法が何かありませんか?先生の話をうかがえば、うかがうほどキバレは自然の魅力に恵まれた素晴らしいところのようです。自分も行ってみたい」
トーマス氏「何の研究がやりたいのか?」
後藤「植物が好きなので、植物とチンパンジーの研究がやりたいのです」
トーマス氏「植物というと?」
後藤「チンパンジーによる果実の種子散布とか薬草について」
トーマス氏「それはすでにやられているよ。霊長類学者は、サルが食べる植物についての知識は植物学者並みにあるものだよ」
後藤「う〜ん、研究のことは正直よく分からないです。まだ実際研究もはじめていませんから」
トーマス氏「指導教官はいないのか? 君の研究が良いものか悪いものか分からないと、キバレに来る許可が出せないよ。研究所の部屋は余裕がないんだ。ボランティアで来るとかかなあ。それに私はすでに一線を退いてしまっているしなあ」
雲行きは怪しい。「研究」という言葉を出すべきではなかったと反省する。話がややこしくなるし、研究についてまだ素人でよくわからないからだ。しかし、お金の問題は苦しい。お金を出してもらえる方法を考えなくては。次のチャンスを待つことにして、夕食をとるためにホテルに帰った。とにかく行きたいという意志は伝えることができた。

夕食と温泉

夕食は前菜、デザートがついたきちんとしたディナーであった。
食事の話題で盛り上がった。
「アフリカではどんなものを食べているんですか?」と聞くと、「米とマメばかり」と答えた。アフリカではそれが普通なのか、それともトーマスの菜食主義者的なところから来るのかよく分からなかった。
「料理はするんですか?」と聞くと、「アフリカでは作ってくれる人がいるし、アメリカでは、妻が作ってくれる。妻は中華料理をよく作ってくれる。妻の料理は、店で食べるよりおいしいから、めったに外食しない。」とのことである。羨ましい。

 芋焼酎の試飲をやっていたので、レストランの人に試飲用の焼酎「桜島」を持ってきてもらった。トーマス氏にとって、焼酎は珍しいはずだ。感想は、アルコールランプに使われているアルコールみたいとのこと。口から火がでるまねをしていた。焼酎は苦手なのか。これから、屋久島に行ったら、必ず屋久島名物の芋焼酎「三岳」がふるまわれるはずなのに残念である。

 温泉に入って、汗を流し、一息。カナダ人に話しかけられた。大衆浴場の使い方のレクチャーをする。
 色々な温泉を試してみたあと、フロントで明日のタクシーの予約をして、部屋に戻り、就寝。


7月6日 火曜日

桜島

5時45分起床。

6時30分、ホテルの前で予約しておいたタクシーに乗りフェリー乗り場へ。フェリー乗り場とホテルとは歩いて10分ぐらいであるが、荷物が大きいのでタクシーを利用した。
昼間、桜島から鹿児島港へは15分毎にフェリーが出ている。24時間船は運航されている。7時の便に乗って、20分で鹿児島港に到着。一人150円という安さは、多くの人に通勤に使われているおかげ? 到着して、左の方向へ。橋を渡り水族館の前を通り過ぎ、5分ほど歩くと、トッピーの乗り場へ。鹿児島港は、去年屋久島に行くとき利用して以来1年ぶり。懐かしい。

カウンターで予約番号をいうと、席が指定された。トッピーに乗る場合は30分前までに券を買う必要がある。フェリーを待つ間、2Fの売店へ行って朝ごはんとなるパンとコーヒーを買った。トッピーに乗り込む。
今回は、時間の都合もあり、高速船ジェットフォイルのトッピーを使ったわけであるが、
昨年度は、倍時間のかかるフェリーで行った。もちろん、こっちの方が断然よい。遠ざかる景色(桜島や屋久島までの離島群)をゆっくり眺めたり、海面を跳ねるトビウオを見たり、海鳥を見たり、海の風を感じたりできるからだ。

 フェリーの中で、血液型占いをやっていて、一番ラッキーなのはB型。トーマス氏の血液型を聞くとなんと「B型」、それを伝えると「ワーオ!」と喜んでいた。雨模様の天気予報にもかかわらず、この旅で、雨にたたられなかったのは、「B型」のトーマスのおかげだったのか! 幸運を見つけるたびトーマス氏は「B is positive!」とご満悦の様子だった。

屋久島上陸

10時05分屋久島宮之浦港に到着。予約していたタクシーに乗り込む。運転手と話して、今日の運賃を2万にしてもらう。車の免許を持っていれば、一番お得である。レンタカーは一日4000円だ。
途中のスーパーで、昼食を買う。
途中でヤクスギ自然館によるつもりだったが、火曜日は定休日であった。
タクシーの運転手の鎌田さんが気を利かせて、橋の上から峡谷を見せてくれたり、森の奥から、切り出された屋久杉を運び出すために利用されたトロッコの線路を見せてくれた。
 1時間30分ほど車を走らせて、ヤクスギランドに到着する。11時45分屋久杉ランド到着。

屋久杉の森の中で〜屋久杉ランド〜

2時間30分コースのトレイルを選ぶ。コースのところどころに屋久杉とその伐採の歴史が英語で書いてあるボードがあるので、助かった。屋久杉の森は屋久杉(1000歳以上の杉を屋久杉と呼ぶ。)だけでなく、それより若い杉やモミ、ツガの木も十分に大きい。荒川の河原に、昼食をとるのに最適な場所を教えてもらい、昼食をとる。


荒川の流れは清涼である


 植物の名前や特徴は英語ながらうまく説明できたと思う。植物への自分の興味が今回トーマス氏に屋久杉の森を説明するのに役に立ったのが、うれしかった。英語や学名で植物の名前を覚えていて植物をガイドできる学部生など、そうおるまい。ボルネオの成果だ。

 2人で屋久杉の森を見ながら進んでいると、サルの鳴き声が遠くから聞こえる。
近くにサルがいるのかと思っていると、サルが出てきた!


あ、サルだ!

 これが今回の旅の野生のヤクザルとのファーストコンタクトである。しばらく、興奮が冷めやらなかった。サルたちは、太忠岳の方向に登って行った。僕たちもついその後を追いくたくなるが、僕たちの進む道は下る道だった。山に消えていくまでサルの姿を見送った。

 トーマス氏は屋久杉の幹に豊かに繁茂する着生植物に驚くとともに、江戸時代切り出されたおおきな杉の切り株を見て、なぜこのように素晴らしい杉を切る気になるのか?と憤慨していた。ちなみにトーマス氏は「Pantheist」つまり「八百万の神を信じる人」だ。20年前までは、キリスト教徒だったという。欧米人には珍しいと思いながらも、様々な生き物に敬意を持って接するナチュラリストとしての彼の姿を見ていると、「Pantheist」であることは、彼にとってごく自然なことであるように思えた。

 彼の父親は国立公園を設定することを仕事として、森林局に勤めていた。また、彼の兄は深海を専門とする海洋学者だという。保全生物学者としての下地は、彼の生育によるところが大きいのかもしれない。

 2人で屋久杉の森を見上げる。屋久杉たちはまっすぐ空まで伸び、その幹からはヤマグルマ、ナナカマド、ヒノキ、ヤクシマシャクナゲ、ソヨゴ、ヒカゲツツジなどの植物がそれぞれ好きな所から生えている。まるで一本の木が色々な種類の葉をつけているようで、「この木は何の木であろうか?」と首を傾げてしまう。屋久杉自身の葉が見つかるのは、見上げた首が痛くなってくる頃だ。

この樹上の庭園を支えているのは、ヤクシマに「月に35日降る」と言われている雨である。年1000〜8000mm降る雨のおかげで、普通なら乾燥して植物の生えにくい高木の樹上にも植物が生えることが出きる


コラム(4)植物の呼び方

杉のことを「cedar」という。フロイデで、山極先生がトーマス氏との会話の中で「ヤクシダー」と繰り返し使っているから、何のことかと思っていたら、「屋久杉」のことであった。
 桜島へ向かう車の中で、トーマス氏が「Kuzu」と連呼する。「何のことだろう?」と思って、細かく聞いてみると「Vine!(つる植物)」という。そこで、ハッと植物の「クズ」に思いがいたった。アメリカで帰化植物として、はびこって困るそうである。日本の植物が、アメリカで迷惑をかけていたとは。
 ヤクシマで覚えていて役に立った植物名。
「ツツジ=Rhododendron(学名と同じ)」
「ナナカマド=Sorbus(学名と同じ)」
「アコウ、ガジュマルなどイチジク属の植物=Ficus(学名と同じ)」
「ツバキ=Camellia(一般名)」
「アジサイの仲間=Hydrangea(属名)」
「トウダイグサ科=Euphrobiaceae(学名)アカメガシワなど=Macaranga
 MacarangaFicusなどはアフリカにもこの仲間は沢山生えているはずなので、安心して使えたが、学名が通じなくて焦ったのは東南アジアだけに分布のヤマグルマなどであった。ちなみにクスノキ科は科名も一般名もうまく通じなかった。
 サルスベリは、それを表す英語がないので、日本語で「Monkey Slipping」と呼ぶ、と言っておいた。


屋久杉ランドで3時間30分過ごした後、屋久杉ランドを後にする。トーマス氏は、下りは膝を痛めると言いながらも、信じられないほどの健脚ぶりを発揮していた。

寿命3000歳、屋久島で、縄文杉についで2番目に古いといわれる「紀元杉」を見に行く。



後藤(20歳)トーマス(66歳)杉(3000歳)


タクシー運転手の鎌田さんの好意で更に高地にある、老齢ですごい杉を見に行った。鎌田さんは、屋久島出身の方で、土地のことにも、植物や動物にも非常に詳しい。


トーマス氏に「彼は運転手ではなく、一流のナチュラリストだ」と言わせしめた鎌田のおっちゃん。

帰りは宮之浦を通って、海岸沿いの道を反時計回りに永田に行くつもりだったが、滝や西部林道も見に行くことにして、時計回りに永田に向かうことにした。

僕は昨年、大川の滝に寄ったことがある。屋久島は大きな1つの岩であるため、その斜面の角度は、皆垂直に近く、本州では見られないような巨大な滝が沢山あるのだ。千尋の滝、大川の滝を見に行った。空には、雲が立ち込めて、夕立が降ってきた。空も暗くなる。



大川の滝。この傘は20年使っているもの。


帰り道

車を走らせていると、すぐに雨が止んだ。屋久島ではよくあることだが、雨は局所的で、車を走らせて、その場所から逃げれば、晴れていることがある。7時ごろ、「屋久の子」に到着。

到着

トーマス氏は夕食。
ここのバイトの大牟田智幸くん(高3)はアメリカの高校に留学していて、英語がうまい。

タートル・ウォッチング

夜10時ごろ、海亀の産卵を見に行く。
ホテルの前の浜である永田の浜は日本で一番、多くの海亀が産卵に訪れる場所である。7月はじめのこの時期、平均で10頭以上の海亀が一晩にやってくる。ボランティアの人々が、日本中から集まって、海亀の産卵保護を助けるとともに、観光客の海亀観察のガイドをしてくれる。\700。保護に必要な資金を得るとともに、マナー無く浜に下りる人間が来るのを防ぐという目的がある。「屋久の子」にバイトに来ている大牟田君のお父さんが、ここのボランティアのリーダーである。トーマス氏は感動して、興奮しつつ、大牟田さんにたくさんの質問を投げかけていた。
海亀は光を嫌うので、海亀がやってきて産卵を始めたら、前からではなく後ろから、ライトで照らす。フラッシュを焚くと、これから浜に上がろうとする亀が帰ってしまうので厳禁。
そして、産卵の様子を観察し、前足にナンバーを取り付ける。卵を産み終わると、海亀は前足と後ろ足を交互に上手に使いながら、砂をかけ、きれいに平らにした後、海へ戻っていく。
近年屋久島に帰化し、個体数を増やしている「タヌキ」が問題になっている。海亀の卵を掘り返して食べてしまうらしい。
朝の砂浜には、海亀が帰って行くときにできた跡が筋になって残っているのを見ることができる。

大牟田さんがまとめた海亀の資料(およそ200ページ)を貰った。大牟田さん直筆の海亀のイラスト(精密かつ丁寧である)がのっている。


産卵の様子。卵も見える

亀の足跡

7月7日 水曜日

淀川

大牟田君のお母さんの運転で、淀川という永田に流れ込む川にバードウォッチングに行く。
淀川は、永田岳への入山口にもなっていて、「屋久の子」の鉄生さんなどの永田の人々が、毎年二回行う「岳参り」のスタート地点でもある。鳥は見られなかった。もっと朝早く行くべきだったか。
河原の岩を軽快に飛び越えていくトーマス氏を見て、「彼、年おいくつなんですか?」と大牟田君が目を丸くしていた。

待ち合わせ

正午、宮之浦の「屋久島文化村センター」で、清野さんと待ち合わせする。宮之浦までは、大牟田君のお母さんに、送ってもらった。永田からは1時間ぐらい。

サル見

昼食後、3人で西部林道にサルを見に行く。途中ステーションに寄った。
果樹園の電気柵を見学する。蔦が絡むことも多いそうである。そのため、すぐ使えなくなるし、電気代も馬鹿にならない。農家の方々はサル対策に皆苦心しておられる。畑を荒らしに来たサルが毎年400頭、猟銃で殺されるという。サルが豊富にいるというこの島の魅力。それが逆に、農家の人を苦しめているという事実がある。

鉄生さん、清野さんの2人を加え、夕食。
屋久島での保護活動や研究、「岳参りの復活」の話題で盛り上がった。

「岳参り」とは屋久島の各集落が伝統的に行っている山岳信仰である。それぞれの集落に近い山と一対一の関係があり、宮之浦は宮之浦岳に、永田は永田岳に年2回登る。2回目の登山では、感謝の念を山の神様に伝えにいくのだそうだ。鉄生さんは、近年、永田の「岳参り」を復活させ、毎年欠かさず行っているという。
鉄生さんが、「岳参り」を始めてから、若がえった気がするという話を聞いて、トーマス氏は、「自分が70近くなっても、元気でいられるのは、森の中を歩き、森に元気を分けてもらっているからである。それと同じではないか?」と共感を抱いていた。確かに、山やジャングルをフィールドにする研究者の方には、年齢のわりに若く見える人や、見た目で年齢が分からない人が多い。若く保つ秘訣はフィールドに出ることのようだ。疲れ果てて就寝。


7月8日 木曜日

サル見

今日は朝から屋久島でヤクザルの研究を行っている、清野未恵子さんに屋久島西部の「サルの群れを追う」という経験をさせてもらう。
清野さんは「ヤクザルの昆虫食」の研究をしている修士2回生の女性である。彼女を、特徴付けているのは、地下足袋である。急な斜面や沢といった歩行困難な地形を多彩に持つ屋久島西部で「サルを追う」には地下足袋が最適であるらしい。雨天時には、スパイクつき長靴を用い、スリップ防止を図る。

僕たちは早朝に出発する必要があった。ヤクザルを見つけやすいのは朝だからだ。サルは目覚めてすぐに採食し、採食時は移動しながら頻繁に鳴き交わしを行う。昼間は休憩時間に入ることが多いので、あまり鳴かず、探すのが困難になる。
鉄生さんに作ってもらった握り飯と焼き鮭を6時半に食べ、清野さんの運転で、永田から、西部林道へと向かう。心配だった天候はなんとかもってくれている。西部林道内に入ると、車はアコウをはじめとする亜熱帯樹林に両サイドが挟まれ、薄暗くなる。まもなく車道の脇にいるサルを発見。車を停める。
道をはずれ、5分ほど下ったところでサルの群れと遭遇。サルはヤマモモやアコウの葉をほおばったりしている。


 トーマス氏と若き研究者清野さん

僕はトーマス氏のカメラケースを肩からかけて、サル追跡の様子を眺めたり、サルが食べた葉を自分でも噛んだりしてみた。

ヤマモモの葉は癖がなく、味だけならサラダにしてもおかしくない。タンニンを多く含んだ葉を持つヒメユズリハの葉は、苦味があり、ボルネオの奥地で噛んだ紙タバコを思い出させた。食草を自分でも噛んでみるというのは、サルになったような、サルの気持ちに触れたような気がするから面白い。

大きなオスのサルが、朽木に生えているキノコをほおばっている姿は初見だった!トーマス氏もサルがキノコを食べている姿を、はじめて見るといっていた。

「ケーン」とサルとは違う高い鳴き声が響く。シカは、サルが落としたアコウなどの木の実を目当てにサルのいる木の下にやってくるのだ。屋久島では「サルの近くにシカがいる」のは一つの常識になっている。
サルを見送っていると、まもなく清野さんが来た。2つの群れを発見したらしい。

早めの昼食をとる。清野さんがおにぎりとサンドウィッチを作ってきてくれた。

サル追跡後半戦開始!

僕たちは森の奥へと入る。大きな川の手前にさしかかった。清野さんは、先ほどはここで、サルの群れを発見したのだという。手に持ったトランシーバーから反応がある。
川の向こう側に、黄色の首輪を付けた一匹のサルを発見する。首輪は発信機になっていて、αメスに取り付けられている。サルの群れを見つけた。トーマス氏は、サルを撮影する。トーマス氏はすごく大胆にサルに近づいていくのに、サルは逃げない。トーマス氏は、長年の経験によってサルに警戒されないコツを身につけているのかも知れない。
 トーマス氏はサルの個体の年齢や順位について熱心に清野さんに尋ねておられた。サルの群れを見るうえで重要な情報である。

野生ザルの育児拒否

 奇妙な光景を見た。群れとともに移動する母親ザルに、子ザルが「キーキー」と甲高く悲壮な鳴き声を上げて、追いかけている。母親ザルは助けに来るどころか、振り向きさえしない。ミルクを与える様子もない。母親としての責任を一切投げ捨ててしまったかのようだ。トーマス氏、清野さん、ともに初めて見る行動らしい。トーマス氏は大変気にしておられた。
母親ザルは、人に警戒心を全く払っていないので、そのため子ザルが人に怯えていても助けに行かないのだ、といった印象を受けた。


      
 天気が悪くなってきた。この時期の屋久島は午後2時ごろから雨が降り出す。僕たちもそろそろ、自動車に戻らなくては。斜面を上りはじめる。
 途中に屋久島一ではないかと思えるガジュマルの木を見つけた。


        
自動車にもどり、サル追跡体験終了。
フルーツガーデンに行き、屋久島特産のたんかんジュースを飲み、喉の渇きを癒す。
夕方5時過ぎ、永田の屋久の子に戻り、一息。

夕食

地元の英語の先生たちとのパーティーへの出席は、トーマス氏の疲労のため、急遽キャンセル。
トーマス氏と「今日サルを追跡した中で何が一番印象深かったか?」という話になり、僕が「子ザルをほったらかしにする母ザル」というと、トーマス氏も意見が一致した。「何が原因か?」について、話しているとき、僕は「母ザルが人間に対して馴れすぎていて、子ザルに危険が迫っているとは考えないのでは?一時的なものでは?」と言ってみた。トーマス氏は、違う意見で「母ザルが狂ってしまって、子供の相手をしなくなったのだ。乳さえやらなかった。このままでは、あの子ザルはきっと死んでしまうだろう。」という。
この旅が終わってしばらくしてから、清野さんとのメールのやり取りの中で、子ザルはやがて姿を見せなくなったことを知った。育児放棄が原因で死んだのだろう。では育児放棄の原因はなんだったのだろうか?

夜の亀ウォッチング

疲れているはずのトーマス氏が亀を見に行きたいという。夕食後、亀を見に行く。海亀の産卵撮影。
トーマス氏が遠くに見える漁船の光を見つけて、「亀が魚網にかかってしまうのでは」と心配していた。エビや魚を取る網によって毎年多くの海亀が捕らえられ、死ぬとのこと。海亀の死亡原因の90パーセントが魚網によるという。

地元の海亀のガイドに「屋久島近郊の海で、海亀が魚網によってとらわれるのではないか、大丈夫か?」と聞いてみた。

「ここらへんじゃ〜、網はあんま使わないよ。一本釣りか槍で突いて捕まえるのがほとんど。亀が来る時期はあまり、網も張らないし。」
とのことだった。この旨をトーマス氏に伝えてみたが、まだすっきりしない様子。

トーマス氏がエビを食べない一因として、このこともあるらしい。
2人で、海沿いを歩いて11時頃帰宅。疲れ果てて、就寝。


7月9日 金曜日

最後の朝

朝は5時半から2人で永田の浜を歩きながら、貝拾いに興じる。
息子さんへのお土産が欲しいらしい。きれいな貝は彼に献上した。

トーマス氏の希望で永田の灯台へ。
記念写真撮影。

なんと灯台でサルがグルーミングしていた! 別れを告げにきたのだろうか。さらば、ヤクザルの島。車に乗り込み、宮之浦へ、車を走らせる。昼食を小さなイタリア料理屋(清野さんいきつけ)でパスタを食べる。自然館で、念願の紀元杉ポスターを買う。他には大したお土産はない。お土産を買いたい人は宮之浦で買うのがベター。鉄生氏の会社に行く。

ゼロエミッション(「ゴミゼロ」と言う意味)

空港から5分ほど車を走らせたところに鉄生氏の会社がある。生ごみリサイクル「地力センター」だ。

 ここでは、上屋久町(屋久島の半分)の一般家庭の生ごみ、屋久島中の木の廃材、倒木が運ばれてきて、コンポストになり、肥料に変えられる。木の廃材に関しては、買って引き取るほどの徹底ぶりである。

  木の切りくずが巨大な山になってコンポストが作られている。その中に手を差し込んでみると、その熱さに驚く。特に化学処理をしているわけでなく、醗酵菌そのものの発熱によって100℃まで上がるそうだ。

 屋久島では、この肥料の需要と供給が釣り合っているから、このセンターは持続可能であるらしい。肥料の生産は、屋久島で農業を行っている人がいてはじめて、成立しているのだ。この種の活動が、ここまでうまくいくのは、全国でもまれであるらしい。

3時15分ごろ、鉄生氏の会社を後にする。
3時25分 飛行場到着
清野さんと別れる。「サルの研究頑張って!」と伝える。
3時50分 屋久島空港離陸。伊丹まで一人当たり34470円。
4時20分 鹿児島空港到着
4時50分 離陸
飛行機内で、幸島で僕が冠地さんに教えてもらったことを、英語で書いたレポートを渡す。
6時15分 大阪空港(伊丹)到着
大阪は雨模様。週末なので交通渋滞。
6時50分 バス出発

バスの中で、トーマス氏から僕の将来の専攻を決める上でのアドバイスをいただいた。「分類学と統計学を究めろ」とのこと。僕が「植物と動物を絡めてやりたい」と言うと、「霊長類学をやるにしても何か一つベースになる学問分野を作ったほうがよい」とのこと。

 握手して、感謝の意を相互に伝え合い、キバレにいるミタニさんに、「リュータロがキバレにいきたいことを伝えて、行けるか聞いてみる」と約束してくれた。

 さらば、トーマス。ノースカロライナにいる家族にもよろしく。僕はホテルの部屋を後にし、最終便の京都行き特急に乗って、京都へと帰った。

おわりに

 いろいろなものを食べて生きているサルに、この旅で出会った。

「イモ洗いをしてイモを食うサル」「麦を洗って麦を食うサル」「文化を失い,麦を口で直接食うサル」「釣り人の魚を食うサル」「釣りの餌を食うサル」「ヤマモモの葉を食べるサル」「作物を盗んで食うサル」「母ザルの乳を吸う子ザル」「母ザルの乳を飲ましてもらえない子サル」食べるものによってサルは様々な姿を見せてくれる。

「イモ洗いの文化があること」「麦洗いの文化が失われたこと」「ボスの不在」「ヒトがサルに与える害」「サルがヒトに与える害」「荷物を奪う(嵐山)」「荷物を奪わない(幸島)」

サルは、単純に「食べる」行為を遂行しているだけにもかかわらず、ヒトの目には多種多様に映り、サルを多面的に知ることができる。餌づけしないと、ボスザルの存在をはじめ、ニホンザルの社会機構を理解するのは難しかったと思う。人づけは、サルの野生の姿の観察を可能にした。人づけと餌づけは、サルを知る上で両方不可欠なのだと思う。観察の方法として、餌づけや人づけを選ぶと、サルにどのような影響が現われるか、気になっている。

母ザルが育児拒否する現場を見た。死んだ子ザルを放さない母ザルの観察記録があるが、一方で、子育てしない母ザルもいるのかと驚いた。野生状態での育児拒否の原因は何なのか。育児拒否と人づけには関係があるのか。

霊長類研究所のチンパンジーで育児拒否が見られたという。育児拒否と人工保育との関係が指摘されているが、野生状態のチンパンジーが育児拒否することはあるのだろうか。松沢先生に、伺ってみたい。


今回の旅は、「本当に僕に行く資格があるのか?」と、とまどうほどの、魅力的なオファーだった。トーマス氏には、僕の将来へのアドバイスを与えてくれたこと、そして一流のナチュラリストの姿を、間近で見せてくれたことに感謝したい。松沢先生には、ポケットゼミからの縁で、こんな未熟者に、チャンスをいただき、ありがとうございました。

2004年7月27日 後藤龍太郎