ニホンザルのこどもたち
霊長類の運動研究
運動と運動発達研究の意義 |
運動とは位置移動のみならず、同じ位置に留まっているときの姿勢保持も含む概念である。故に運動は動物の生活全てに渡る最も基本的な行動である。ある動物の運動はその形態と深い関連がある。霊長類は樹上で進化してきたため、他の地上性哺乳類と比して、多様な運動を行い、霊長類内での変異の幅も大きい。同時に、霊長類は運動器官形態も多様である。また、立体的で不連続な樹上空間を移動するため霊長類の認知・身体制御系も高度に発達してきたと考えられている。樹上という環境で進化した霊長類の中には再び地上へ降り、地上を主な活動場所としている種もある。霊長類の適応放散を考える上でも、彼らの現在の生活を分析する上でも、運動研究は重要な課題の一つである。また、霊長類の運動研究はヒトの直立二足歩行の起源を探る上でも重要な研究課題にもなっている。 また霊長類は同じくらいの大きさの他の哺乳類と比べて、発達が遅いことが知られている。多くの霊長類が巣を持たず、生まれたばかりの赤ちゃんは母親にしがみついて庇護されている。このような状態から子供は徐々に母親から離れて行動できるようになり、最後に全ての移動を自分でまかなうことができるようになる。霊長類の運動発達は、形態、認知系、身体制御系の発達とともに、その種の社会構造や生態条件と互いに深く結びついていることが示唆されていて、大変興味深い研究課題である。 しかし、霊長類の運動やその発達について、野外での研究は少ない。これが私の研究動機の一つとなった。 |
ニホンザルの運動とその発達 |
ニホンザルはヒト以外の霊長類で最も北に生息している。またマカク属という最も繁栄している分類群に属している。その適応放散を運動面で探ることは大変興味深い課題の一つである。 マカクは一般に四足性と言われるが、カニクイザルのように樹上を主な活動空間にする種もあれば、ブタオザルのように地上を遊動する種もいる。ニホンザルは運動からみると、マカクでどのような位置をしめるのだろうか?結論を言えば、ニホンザルは樹上・地上を共に利用する半地上性であり、近縁種のカニクイザルとブタオザルの運動と比較すると中間的な種であることが判明した。このような彼らの運動の特徴と尾や四肢などの形態とも関連があると思われる。 また、ニホンザルは懸垂運動を稀にしか行わず、成長するに従ってその頻度も減少するようだ。また上記のように、巣を持たない大部分の霊長類幼児にとって、懸垂は母親の腹部にしがみついて運搬・保護されるための重要な運動であることは自明のことであった。しかし、母親にしがみつく以外にも、懸垂は滑落防止のための安全装置として運動発達上重要な機能があることが明らかになった。これはニホンザルのような懸垂を稀にしか行わない四足性の種であってさえも、懸垂が運動発達上重要な役割を果たしていることを示唆している。 |
パタスモンキーの運動とその発達 |
パタスモンキーはサバンナで暮らす、すらっとしたスタイルのいい霊長類である。極度に地上適応し、霊長類最速の時速55kmで走行することができる。競走馬は時速60kmくらいで走るので、パタスは韋駄天と言ってもよさそうだ。彼らは四肢が大変長いのだが、その適応的理由は暑いサバンナで暮らすための放熱器官と、捕食者から逃げる時に速く走るためだと考えられてきた。数年前、イスベルさんたちがケニアでパタスと、その近縁種であるミドリザルを比較研究して、新しい考えを発表した。彼らの説はこうである。パタスの長い四肢は、走って敵から逃げることよりも、サバンナに疎らに広く分布した食物をとるために長距離を歩くことと、より深く関係しているのではないか?というものだ。 大変魅力的な考え方だが、しかし、パタスにとって走ることはやはり重要なのではないか、というデータが得られた。また、パタスにはこれまで発表されている以外の大変面白い運動を行っている。サバンナの雨季は大変草深くなる。見通しが悪い平地を彼らが逃げ去るとき、二足跳躍走行とでも言うべき移動様式を使うのである。それ以外にもパタス特有の興味深い運動があることが判明した。興味のある方は霊長類の運動---ビデオ動画と静止画集(画像付き目次ページか画像なし目次ページ)をご覧下さい。 パタスはニホンザルよりもずっと成長が早い。運動発達も早く、お母さんの助け(お母さんに捕まって運搬してもらうこと)は生後半年強で無くなる。大変独立心の強い子供達で、母子関係を特定するのが大変なくらいだ。それはともかく、パタスの運動発達がこんなに早いのは何故だろうか?そして、「お母さんに頼らない」子供達はどうやって厳しいサバンナを生き抜いておとなになっていくのだろうか?運動発達面から、このような問題を解くべく現在研究を進めている。 |
チンパンジーの運動発達 |
チンパンジーはヒトに最も近い霊長類で、その運動発達をヒトや他の霊長類と比較することは非常に興味深いテーマの一つである。
その第一の理由は、チンパンジーをはじめとする類人猿の四足歩行や二足歩行がニホンザルなどのオナガザル類といくつかの点で大きく異なっており、ヒトの最大特徴である直立二足歩行の起源を探る上で重要な示唆を与えてくれるのではないか、と思われるからだ。そのため、以前この霊長類研究所におられた木村賛氏(現・東京大学)が、本研究所のチンパンジー達の二足歩行と四足歩行の発達を詳しく観察しておられた。彼の研究によると、チンパンジーの四足歩行発達にはニホンザルやアカゲザルなどのマカク属と違った傾向が幼いときから見られる、という可能性が高い。また、幼いときから後ろ足に体重をかけ、後ろ足で地面を強く蹴り進み、バラエティー豊富な地上移動様式を有する点で、ヒトの祖型モデルとなりうるのではないか、と木村氏は考察している。 ところで、現在まで、化石や形態(身体の各部位の形)や現生霊長類の移動様式の研究から、様々な直立二足歩行の起源仮説が出ているが、どの説をとろうとも、ヒトの祖先にとって、樹上もまた重要な生息場所であった時期があったことは確実である。その樹上での運動、特にブラキエーションと垂直登攀、ゆっくりした手足を使った移動様式等は、二足歩行の起源を考える上で、つまり二足歩行が重要になる直前の私たちの祖先の生活を考える上で、大変重要なのである。しかし、これらの現生類人猿における樹上運動発達の詳細は未だとらえられていない。従って樹上運動発達と地上での四足歩行や二足歩行の発達とが一体どのような関係があるかも詳しくは調べられていない。そこで、私は霊長類研究所のチンパンジーの子供達を観察し、以上に述べた様々な運動発達そのものと、それらの発達の相互関係を明らかにし、ヒトの直立二足歩行の起源を運動発達の面で探ってゆきたいと思っている。 |
運動発達の種間比較 |
霊長類は、同じような身体の大きさの他の哺乳類に比べて、体重や身体の各部の成長・発達速度が遅いことが知られている。チンパンジーをはじめとする大型類人猿はオナガザル類よりも更に成長・発達の更にスピードが遅く、ヒトにとても近い。逆にニホンザルのようなオナガザル類は成長・発達速度が比較的速いことが知られている。成長・発達が遅く、性的成熟を迎える思春期が遅れれば、社会生活を営む群に長く留まることができ、安全を確保できる。群をつくらない場合でも、異性の親とも生殖の危険もなく、同性の親とも異性を巡って競争することなく、長く一緒に過ごすことができる。また発達期間が長ければ、学習期間も長くなり、様々な知識を増大させることができるであろう。運動発達が、認識や脳、運動器官形態、などの他の発達項目とどのように関連しているのか。それを総合的にとらえることによって、ヒトや類人猿の発達が何故遅くなり、それが進化史的、生物学的にどのような意義があるのかを明らかにしてゆきたいと思っている。 |
運動発達と生態・社会的要因との関係 |
運動発達研究は、霊長類の発達が生態や社会的要因とどのように関わりがあるかを総合的にとらえ、霊長類やヒトの生活史がどう変化してきたか、という大きな疑問に答えを出す端緒となるだろう。 例えばお母さんに運ばれずに全ての移動を自前でやる時期について、種による違いを見てみよう。ドランさんという野外でチンパンジー観察をしていた方の報告によると、母親による手厚い保護は運動面でも長く続くようだ。地上を長距離遊動するとき、チンパンジーの子供は4、5才までお母さんにおんぶされて運んでもらうのである。その頃になると、お母さんは次の子を産み、お兄さんやお姉さんになってしまった子はお母さんに運んでもらう権利を弟妹に譲ることになる。一方ニホンザルでは満1才くらいまでお母さんに運んでもらう。満1才を過ぎても、しかも弟妹が産まれても、お母さんに運んでもらう甘えん坊の個体もいる。つまり、弟妹にお母さんのお腹を占領されていても、1才になったお兄さんやお姉さんがお母さんの空いている背中にちゃっかり乗っていることがあるのだ。またパタスモンキーは上記のごとく生後約6〜8カ月にもなればお母さんに運んでもらうことはなくなる。このときは、新しい弟妹が産まれるどころか、まだお腹に宿るかどうか、という早い時期である。この三種では、チンパンジー、ニホンザル、パタスの順にお母さんから独立して移動する時期が早い、ということになる。この順序は、離乳年齢、性成熟年齢、初産年齢、出産間隔の長短(子を産んでから次の子を産むまでの期間)等とも同じである。つまり、発達時期には年数の種差はあるけれども、母親の世話がなくなること(社会的関係発達)や生殖器官発達(身体発達)と、運動発達の順序だけをみれば、それらが種差を超えて共通している、とも言えるのだ。 しかも、成長・発達には生態の条件とも深く関わっていると推察されている。例えばロスさんによると、旧世界ザルの中で比較したところ、森林に棲む種は開けたところに生息する種よりもゆっくり成長し初産年齢も遅い傾向があるそうだ。ニホンザルは亜熱帯から温帯の森林に生息するが、パタスモンキーは熱帯の草原に棲んでおり、ロス氏が指摘する傾向が当てはまる(チンパンジーは旧世界ザルではないため除外する)。つまり、これらの結果から、母子関係等の社会的要因や生態的要因、身体の成長と運動発達は、互いに深い関係にあるのだと推測できるのだ。霊長類の運動発達も生活史の重要な一部として位置づけられるのである。 |
以上のような目的を念頭におきつつ、目下霊長類の運動観察を行っているところである。